2012年 08月 21日
人間の変節・横田喜三郎の場合 |
敗戦を終戦と呼び換えた日本人は、先の戦争を総括することなく、したがって今日に至るも戦争責任の問題を曖昧にしたままで過ごしてきた。国権の最高権力者であり陸海軍の統帥権者であった昭和天皇の戦争責任に触れることは、現在においては事実上タブーとなっている。世界で最も言論の自由がある国、と言われる日本においてのことである。大手新聞社が社説で取り上げると、「左翼」のレッテルが貼られ、天皇の戦争責任を語った長崎市長(当時)は狙撃された。思想的に中庸の知識人もこの問題に触れることを避けている。そのほうが賢い生き方であるからだ。
戦後間もないころは、丸山真男など何人かの学者が天皇の戦争責任を論じている。東京大学の国際法教授であった横田喜三郎は戦後の昭和23年8月26日の読売新聞に、「天皇退位論」という小論を発表した。天皇に戦争責任ありとし退位を求めるその論旨は極めて明快である。同24年には天皇制は民主制と矛盾するとする「天皇制」も出版した。そこでは、「天皇制は封建的遺制であって民主政治が始まった日本では相容れない。廃止すべきである」と主張した。
戦後間もないころは、丸山真男など何人かの学者が天皇の戦争責任を論じている。東京大学の国際法教授であった横田喜三郎は戦後の昭和23年8月26日の読売新聞に、「天皇退位論」という小論を発表した。天皇に戦争責任ありとし退位を求めるその論旨は極めて明快である。同24年には天皇制は民主制と矛盾するとする「天皇制」も出版した。そこでは、「天皇制は封建的遺制であって民主政治が始まった日本では相容れない。廃止すべきである」と主張した。
その横田は昭和35年、最高裁判所長官に就任する。そして同41年、勲一等旭日大綬章を授賞、56年、文化勲章を授賞した。天皇からの“親授”である。その過程で横田は、それまでの天皇制廃止論は間違っていたと“前言取り消し”をしている。なんと、「本屋を回り著書『天皇制』を回収して歩いた」(Wikipedia)という逸話が残っている。
人間は権力者に懐柔されるとかくも見事に変節するものであるというこれ以上の見本はなかろう。
「天皇退位論」・横田喜三郎=(若槻泰雄著『売文業者たちの戦後責任』・原書房)からの部分引用。
「現在、戦争指導者が追放され、あるいは裁判にかけられているとき、満州事変以来の侵略戦争で、政治上、軍事上の最高の権力者、日本の国家行動の最高の代表者である天皇は、戦争の最高の権力者であることはいうまでもなく、その退位が問題となるのは当然である。(木戸日記によれば)形式的のみならず実質的にも、天皇は軍事上すべての行動について報告を受け、これを最終的に承認している」
人間は権力者に懐柔されるとかくも見事に変節するものであるというこれ以上の見本はなかろう。
「天皇退位論」・横田喜三郎=(若槻泰雄著『売文業者たちの戦後責任』・原書房)からの部分引用。
「現在、戦争指導者が追放され、あるいは裁判にかけられているとき、満州事変以来の侵略戦争で、政治上、軍事上の最高の権力者、日本の国家行動の最高の代表者である天皇は、戦争の最高の権力者であることはいうまでもなく、その退位が問題となるのは当然である。(木戸日記によれば)形式的のみならず実質的にも、天皇は軍事上すべての行動について報告を受け、これを最終的に承認している」
「個人として、天皇が戦争を欲しなかったことは事実であろう。しかし現実には、天皇の承認の下に、いぜんとして戦争の計画は進められ、ついに開始を見るに至った。そうしてみれば、公人としての天皇はこの戦争に対する責任をまぬがれることはできない。最高の責任をおうことは、政治上の常識であり、法律上の公理である」、「天皇の退位はたんに過去の行為に対する責任のためであるばかりでなく、、、、、」
by rakuseijin653
| 2012-08-21 10:00
| 天皇(制)
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Comments(1)
Commented
by
名なし草
at 2015-10-29 10:35
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横田の変節については家永三郎が書いたものがありますね。変節の証拠書籍として著名な「天皇制」は、希少価値のため、べらぼうに高いらしい。
ちなみに砂川事件の最高裁における政府(検察側)見解は横田の学説をベースにした、というよりそっくりそのまま拝借したと言われています。
ちなみに砂川事件の最高裁における政府(検察側)見解は横田の学説をベースにした、というよりそっくりそのまま拝借したと言われています。
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