2012年 11月 03日
医者の術、医者の良心 |
「3時間、待って病名『加齢です』」。これは全国有料老人ホーム協会が、今年の「老人の日」に向けて募集したシルバー川柳の入選作である。
また、ツイッターでフォローしている水戸市在住の@aquamasaさんが、「(77歳の)妻が難聴で医者に行ったら『あなた、何歳だと思っているのですか』と頭ごなしに言われ、ろくに診察もしてもらえなかった」と立腹、嘆いておられた。
片や、熊本に住む姉は、80歳にして医者から難聴の回復手術を勧められ、完全ではないが以前より改善したと言っている。熊本大学の医学部は戦前(熊本医専)からの権威ある伝統を引き継いでおり、その卒業生による医療レベルの評価は全国的にも高い。
冒頭の2例は加齢を口実に医者の良心を放棄していると言わざるを得ない。
医者を志す者は、患者に誠実に対応することが、医療に求められる基本的な資質であると教育されているはずだ。しかし、医者も人間、良心に欠けた者もいるし医術が未熟な医者もいるのが現実である。残念ながら、医者によって「治る病も治らない」と言うのは事実である。「助かる命も助からない」ということもあろう。
それにしても、難治の病や高度の外科手術が求められるものならいざ知らず、日常生活に身近な例えば皮膚病など比較的単純な症状について、医者の見立てが大きく違うのはどうしたことだろうか。
卑近な例である。家人が手が荒れたということで徒歩3分のところにある、開業して間もない皮膚科病院に行った。見立ては「水虫」だと。数週間通ったが全く治癒に向かわない。そこで、40年ほど前に知人に教えてもらって通ったことがある新宿の病院に変えたのだ。そこの医者の見立ては「水虫ではない」と即座に断定したという。もらった薬であっという間に完治したのである。その病院までは電車とバスを乗り継いで一時間以上かかる。もちろん交通費も。こんな馬鹿げた話が現実にあるのだ。
なお、この病院には新幹線で三島から来ていた人がいたという。40年を経て今は、息子が親の確かな医術を受け継いでいる。たかが、ではないかもしれないが、皮膚病の見立てと治療で何でこれほどの差が医者によってでるのか不思議な世界ではある。
また、ツイッターでフォローしている水戸市在住の@aquamasaさんが、「(77歳の)妻が難聴で医者に行ったら『あなた、何歳だと思っているのですか』と頭ごなしに言われ、ろくに診察もしてもらえなかった」と立腹、嘆いておられた。
片や、熊本に住む姉は、80歳にして医者から難聴の回復手術を勧められ、完全ではないが以前より改善したと言っている。熊本大学の医学部は戦前(熊本医専)からの権威ある伝統を引き継いでおり、その卒業生による医療レベルの評価は全国的にも高い。
冒頭の2例は加齢を口実に医者の良心を放棄していると言わざるを得ない。
医者を志す者は、患者に誠実に対応することが、医療に求められる基本的な資質であると教育されているはずだ。しかし、医者も人間、良心に欠けた者もいるし医術が未熟な医者もいるのが現実である。残念ながら、医者によって「治る病も治らない」と言うのは事実である。「助かる命も助からない」ということもあろう。
それにしても、難治の病や高度の外科手術が求められるものならいざ知らず、日常生活に身近な例えば皮膚病など比較的単純な症状について、医者の見立てが大きく違うのはどうしたことだろうか。
卑近な例である。家人が手が荒れたということで徒歩3分のところにある、開業して間もない皮膚科病院に行った。見立ては「水虫」だと。数週間通ったが全く治癒に向かわない。そこで、40年ほど前に知人に教えてもらって通ったことがある新宿の病院に変えたのだ。そこの医者の見立ては「水虫ではない」と即座に断定したという。もらった薬であっという間に完治したのである。その病院までは電車とバスを乗り継いで一時間以上かかる。もちろん交通費も。こんな馬鹿げた話が現実にあるのだ。
なお、この病院には新幹線で三島から来ていた人がいたという。40年を経て今は、息子が親の確かな医術を受け継いでいる。たかが、ではないかもしれないが、皮膚病の見立てと治療で何でこれほどの差が医者によってでるのか不思議な世界ではある。
by rakuseijin653
| 2012-11-03 09:00
| 雑記
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