2012年 11月 12日
猪木正道氏が亡くなった |
「5年連用日記」をつけている。今使用しているのは、「2008年―2012」版である。その日ごとに過去の同じ日の記述をザーッと見返している。7日、2009年の11月7日のところに猪木正道著「『軍国日本の興亡』を読み始める」と記していた。それからパソコンに向かいネットでニュースを見たら、「猪木正道氏死去」とある。この偶然。ときどきこういう不思議な偶然がある。
この著書(中公新書)を買い求めたのは1995年であるが、折に触れ読み返して自分の考えを確認している。
猪木氏は、1970年、中曽根防衛庁長官時代に防衛大学校の校長を務めた。当時は猪木氏の著作は何も読んでいなかったし、どういう政治思想をもっている人物かも知らなかった。後に不沈空母発言で物議をかもした中曽根氏の指名で就任した猪木氏へのイメージは、軍備強化を図る「タカ派」という先入観によるものであった。しかし、その後新聞雑誌等で猪木氏の思想を知り、氏の思想はそんな単純なものではなく、非常にバランスのある歴史認識と政治思想をもっている人であることを知った。猪木氏は本書を、「(自分の)子供たち夫婦、その孫を含むわが同胞への遺言のつもりである」と「まえがき」に書いている。
猪木氏は、空前の敗戦による軍事アレルギーによって軍事的価値と軍事力を不当に過小評価する主張を、「空想的平和主義」と名付ける。そしてそれは独善的であり、国際的視野を欠き、一国主義的である点において戦前、戦中の軍国主義と表裏であると説く。
本著は、「空想的平和主義」を論難するものではなく、その反面教師としての、戦前、戦中の軍国主義の過ちを追求したものである。
例えば、右翼に限らず、「太平洋戦争はアメリカに追い詰められて始めた自衛のための戦争であった」と言い、そう思い込んでいる者が少なくないが、猪木氏は、「満州事変から日中戦争まで、中国の主権と領土を侵犯し続けた日本は、ハル・ノートに接して、自爆せざるをえなかったのである。大東亜戦争(太平洋戦争)は自爆戦争以外の何ものでもなかった」と断定する。
また、安倍晋三などは「中国への進出が、侵略であったかどうかは後世の歴史家の判断に委ねるべきである」と強弁し歴史に正面から向き合うことから逃げようとするが、猪木氏の論説は明解である。
「1922年2月6日、ワシントンで『中国に関する九か国条約』に調印し、1929年7月に発動した不戦条約に前年調印して参加しながら、軍国日本は、1931年から中国へ露骨な侵略を開始した。中国に対する侵略を、18、19世紀に英国が行った侵略と単純に比較して、日英同罪論を説くものがある。しかし、そのころは不戦条約も九か国条約もなかった。侵略は美徳ではないまでも悪徳とは考えられていない。侵略をはっきりと非難し、戦争を排除するようになったのは、第一次世界大戦の惨状を経験した後である」と明確に「中国への侵略」と述べている。
97歳の天寿を全うした高邁な思想家猪木正道氏の死を悼む。京都大学で猪木氏に師事した五百旗頭真氏(前防衛大学校長)がその思想を受け継いでいる。その理念は、「自国をみずから守ることによって国際社会の平和と安全に対する責任を果たす」ことであり、「文民統制によって軍の暴走を抑制する」ことである。
この著書(中公新書)を買い求めたのは1995年であるが、折に触れ読み返して自分の考えを確認している。
猪木氏は、1970年、中曽根防衛庁長官時代に防衛大学校の校長を務めた。当時は猪木氏の著作は何も読んでいなかったし、どういう政治思想をもっている人物かも知らなかった。後に不沈空母発言で物議をかもした中曽根氏の指名で就任した猪木氏へのイメージは、軍備強化を図る「タカ派」という先入観によるものであった。しかし、その後新聞雑誌等で猪木氏の思想を知り、氏の思想はそんな単純なものではなく、非常にバランスのある歴史認識と政治思想をもっている人であることを知った。猪木氏は本書を、「(自分の)子供たち夫婦、その孫を含むわが同胞への遺言のつもりである」と「まえがき」に書いている。
猪木氏は、空前の敗戦による軍事アレルギーによって軍事的価値と軍事力を不当に過小評価する主張を、「空想的平和主義」と名付ける。そしてそれは独善的であり、国際的視野を欠き、一国主義的である点において戦前、戦中の軍国主義と表裏であると説く。
本著は、「空想的平和主義」を論難するものではなく、その反面教師としての、戦前、戦中の軍国主義の過ちを追求したものである。
例えば、右翼に限らず、「太平洋戦争はアメリカに追い詰められて始めた自衛のための戦争であった」と言い、そう思い込んでいる者が少なくないが、猪木氏は、「満州事変から日中戦争まで、中国の主権と領土を侵犯し続けた日本は、ハル・ノートに接して、自爆せざるをえなかったのである。大東亜戦争(太平洋戦争)は自爆戦争以外の何ものでもなかった」と断定する。
また、安倍晋三などは「中国への進出が、侵略であったかどうかは後世の歴史家の判断に委ねるべきである」と強弁し歴史に正面から向き合うことから逃げようとするが、猪木氏の論説は明解である。
「1922年2月6日、ワシントンで『中国に関する九か国条約』に調印し、1929年7月に発動した不戦条約に前年調印して参加しながら、軍国日本は、1931年から中国へ露骨な侵略を開始した。中国に対する侵略を、18、19世紀に英国が行った侵略と単純に比較して、日英同罪論を説くものがある。しかし、そのころは不戦条約も九か国条約もなかった。侵略は美徳ではないまでも悪徳とは考えられていない。侵略をはっきりと非難し、戦争を排除するようになったのは、第一次世界大戦の惨状を経験した後である」と明確に「中国への侵略」と述べている。
97歳の天寿を全うした高邁な思想家猪木正道氏の死を悼む。京都大学で猪木氏に師事した五百旗頭真氏(前防衛大学校長)がその思想を受け継いでいる。その理念は、「自国をみずから守ることによって国際社会の平和と安全に対する責任を果たす」ことであり、「文民統制によって軍の暴走を抑制する」ことである。
by rakuseijin653
| 2012-11-12 09:00
| 歴史
|
Comments(1)
Commented
by
rakuseijin653 at 2012-11-13 20:06
今日(11月13日)の朝日新聞に、五百旗頭真氏が、「言葉に強さ 戦う自由主義者」と題する猪木正道氏への追悼文を寄稿しています。
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