2013年 01月 21日
多数決のパラドックス |
大阪の橋下市長が、桜宮高校体育科の2月実施の入試中止を打ち出し、「自分のやりかたに異議があるなら選挙で落とせばいい」と言ったことで、日ごろの彼の過激発言と政治手法を問題にしている人たちが批判している。17日、ツイッターには次のようなつぶやきも見られた。
想田和弘@KazuhiroSoda
「『文句があるなら次の選挙で落とせ』っていう捨て台詞には、『当選したからには何をやろうがオレの自由だ、お前らはオレに白紙委任をしたんだ』というメタ・メッセージが含まれている」
「想像して欲しい。万が一、橋下徹が首相になって、他国と戦争しようとするときのことを。そのとき、いかなる戦争反対の運動が盛り上がったとしても、彼はこう言うだろう。『文句があるなら次の選挙で落とせ』。そして戦争を開始するだろう。戦死した人は橋下が次の選挙で落ちても帰って来ない」
多くの人が“賢人である”と思って選んだ首長が独裁的に振る舞う。こういう二律背反を「多数決のパラドックス」という。
市井三郎著「歴史の進歩とはなにか」(岩波新書)によれば、既に古代ギリシャ時代、プラトンが「国家篇」のなかで、このパラドックスと呼んでもいいものに気が付いていた形跡があるという。そのパラドックスとは「多数者が単一(もしくはごく少数)の人間に政治的支配をゆだねる、という決議をすれば、多数決そのものによって独裁者が出現することになる」というものである。今、橋下を“独裁者”と呼ぶとすれば、このパラドックスの通りの事象をわれわれは見ているのだ。
ここで市井は、多数決それ自体がこの二律背反に直面して成り立たなくなる条件を提示する。それは「選択肢が三つ以上あって、社会の成員がそれぞれまったく自立的な人間であり、あらゆる種類の強制に左右されることなく選択をおこなう、という条件なのだ」
「人間史においては、ある分野で“進歩”と呼びうる現象が起きると、ムレの経験法則によってその弊害面が生じてきたのである。だから、より真実なかたちで進歩を達成しようとするならば、もろもろのパラドックスをどうすれば緩和・克服できるかという、いままでとちがった問題意識の探求がはじめられなければならなぬのではないか」としてこのパラドックスを克服する価値理念を次のように提案する。
「ほんらい矛盾・対立する両者の要請を、より高い次元で統合しうるような、新しい価値理念を創出すべきではなかろうか」
「(その価値理念とは)おのおのの人間は、みずからの責任を問われる必要のないことからさまざまな苦痛ー不条理な苦痛ーを負わされているが、その種の苦痛は減らさなければならないという理念の提案である」(強調は引用者)
市井三郎の唱える価値理念を橋下市長の桜宮高校入試中止発言に照らせば、「一般受験生が自らの責任ではない不条理な苦痛を被らんとしている時、自立した社会の成員がそのような選択が行われないように声を上げなければならない」ということになろうか。
、
「歴史の進歩とはなにか」市井三郎(岩波新書)
2015年7月2日追記
7月2日の朝日新聞「折々のことば」が、市井三郎の「不条理のことば」を取り上げている。 ~ ~ ~ ~ ~ ~
想田和弘@KazuhiroSoda
「『文句があるなら次の選挙で落とせ』っていう捨て台詞には、『当選したからには何をやろうがオレの自由だ、お前らはオレに白紙委任をしたんだ』というメタ・メッセージが含まれている」
「想像して欲しい。万が一、橋下徹が首相になって、他国と戦争しようとするときのことを。そのとき、いかなる戦争反対の運動が盛り上がったとしても、彼はこう言うだろう。『文句があるなら次の選挙で落とせ』。そして戦争を開始するだろう。戦死した人は橋下が次の選挙で落ちても帰って来ない」
多くの人が“賢人である”と思って選んだ首長が独裁的に振る舞う。こういう二律背反を「多数決のパラドックス」という。
市井三郎著「歴史の進歩とはなにか」(岩波新書)によれば、既に古代ギリシャ時代、プラトンが「国家篇」のなかで、このパラドックスと呼んでもいいものに気が付いていた形跡があるという。そのパラドックスとは「多数者が単一(もしくはごく少数)の人間に政治的支配をゆだねる、という決議をすれば、多数決そのものによって独裁者が出現することになる」というものである。今、橋下を“独裁者”と呼ぶとすれば、このパラドックスの通りの事象をわれわれは見ているのだ。
ここで市井は、多数決それ自体がこの二律背反に直面して成り立たなくなる条件を提示する。それは「選択肢が三つ以上あって、社会の成員がそれぞれまったく自立的な人間であり、あらゆる種類の強制に左右されることなく選択をおこなう、という条件なのだ」
「人間史においては、ある分野で“進歩”と呼びうる現象が起きると、ムレの経験法則によってその弊害面が生じてきたのである。だから、より真実なかたちで進歩を達成しようとするならば、もろもろのパラドックスをどうすれば緩和・克服できるかという、いままでとちがった問題意識の探求がはじめられなければならなぬのではないか」としてこのパラドックスを克服する価値理念を次のように提案する。
「ほんらい矛盾・対立する両者の要請を、より高い次元で統合しうるような、新しい価値理念を創出すべきではなかろうか」
「(その価値理念とは)おのおのの人間は、みずからの責任を問われる必要のないことからさまざまな苦痛ー不条理な苦痛ーを負わされているが、その種の苦痛は減らさなければならないという理念の提案である」(強調は引用者)
市井三郎の唱える価値理念を橋下市長の桜宮高校入試中止発言に照らせば、「一般受験生が自らの責任ではない不条理な苦痛を被らんとしている時、自立した社会の成員がそのような選択が行われないように声を上げなければならない」ということになろうか。
、
「歴史の進歩とはなにか」市井三郎(岩波新書)
7月2日の朝日新聞「折々のことば」が、市井三郎の「不条理のことば」を取り上げている。
by rakuseijin653
| 2013-01-21 09:00
| 政治
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Comments(2)
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rakuseijin653 at 2013-01-21 11:06
市井三郎が「歴史の進歩とはなにか」を著わしたのは昭和46年のことです。
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rakuseijin653 at 2015-07-07 15:31
2015年7月2日の朝日新聞「折々のことば」が、市井三郎の「不条理のことば」を取り上げていたので、コピーを挿入しました。