2013年 06月 24日
安曇野へ行ってきた |
小布施に行った翌日、安曇野を訪ねた。目的は「碌山美術館」で荻原碌山の作品に触れ、残雪の北アルプスを望む風景をスケッチすることであった。大規模のわさび園と、清流に回る水車の風景も安曇野を象徴するもので、今やテレビの旅番組でお馴染みである。
碌山(1879-1910年)のことを知ったのは、臼井吉見の小説「安曇野」(筑摩書房)によってである。相前後して、碌山とその作品を紹介するテレビの美術番組を何度か観て以来、一度訪ねてみたいと思っていた。後に再放送で知ったが、1976年にスタートしたNHKの「日曜美術館」第一回で荻原碌山をとりあげている。
「安曇野」・全5巻〈1974年)は、新宿・中村屋の創業者相馬黒光の人生を描くノンフィクション小説である。黒光が事業を成功させていく過程で日本の近代史に名を遺した多くの人物と関わっていく情景が克明に描かれている。日本へ亡命していたインドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースを匿い、支援したことは有名である。
碌山(1879-1910年)のことを知ったのは、臼井吉見の小説「安曇野」(筑摩書房)によってである。相前後して、碌山とその作品を紹介するテレビの美術番組を何度か観て以来、一度訪ねてみたいと思っていた。後に再放送で知ったが、1976年にスタートしたNHKの「日曜美術館」第一回で荻原碌山をとりあげている。
「安曇野」・全5巻〈1974年)は、新宿・中村屋の創業者相馬黒光の人生を描くノンフィクション小説である。黒光が事業を成功させていく過程で日本の近代史に名を遺した多くの人物と関わっていく情景が克明に描かれている。日本へ亡命していたインドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースを匿い、支援したことは有名である。
仙台で生まれ東京の明治女学校を出た才気溢れる星 良(のちの黒光)は、養蚕業を営むキリスト教徒の相馬愛蔵に嫁いで安曇野へ来た。愛蔵が活動する「禁酒会」に所属していた守衛(のちの碌山)は、黒光が持ってきた初めて見る油絵、「亀井戸風景」(長尾杢太郎)により美の世界に目覚め、更に高じてフランスへ渡りロダンの彫刻を見て彫刻家を目指す。
東京へ移った黒光の支援を受け彫刻家として独立していくが、病を得て30歳で夭折している。高村光太郎は4歳年下の友人であった。
館内では、力感あふれ、わが国近代彫刻の開拓者と評価される碌山の作品の数々に触れることができる。代表作「女」は黒光がモデルとも言われている。碌山の死を受けた悲しみをバーナード・リーチに伝えた光太郎の葉書も展示されている。
*高村光太郎からB.リーチ宛葉書の文面
[Mr.Ogiwara,a friend of mine,is dead sudenly.I am here by his tomb.
You cannot imagine how I am sad.]
「安曇野」(臼井吉見・筑摩書房)
碌山美術館(昭和33年=1958年開館・キリスト教の洗礼を受けた碌山を象徴したデザイン)
美術館のリーフレットから
北アルプスを望む田園風景(北アルプスの山並みはわずかに雪を残して霞の中であった)
館内では、力感あふれ、わが国近代彫刻の開拓者と評価される碌山の作品の数々に触れることができる。代表作「女」は黒光がモデルとも言われている。碌山の死を受けた悲しみをバーナード・リーチに伝えた光太郎の葉書も展示されている。
*高村光太郎からB.リーチ宛葉書の文面
[Mr.Ogiwara,a friend of mine,is dead sudenly.I am here by his tomb.
You cannot imagine how I am sad.]
「安曇野」(臼井吉見・筑摩書房)
碌山美術館(昭和33年=1958年開館・キリスト教の洗礼を受けた碌山を象徴したデザイン)
美術館のリーフレットから
北アルプスを望む田園風景(北アルプスの山並みはわずかに雪を残して霞の中であった)
by rakuseijin653
| 2013-06-24 08:00
| 美術
|
Comments(2)
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rakuseijin653 at 2013-06-24 17:08
毎度のことながらこの偶然!今朝の「若大将ゆうゆう散歩」(TV朝日)で加山雄三が安曇野を歩いていました。通常は都内の散歩がほとんどなのに。この番組をいつも観ているわけではなく、たまたま廻したチャンネルです。先週は「小布施に行ってきた」を投稿した後に、日本画家中島千波が日経夕刊「こころの玉手箱」に小布施に戦時中疎開していたことを書いていました。その縁で小布施には町立美術館・中嶋千波館があります。
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rakuseijin653 at 2013-06-24 22:38
「亀井戸風景」:現在「亀戸」と書きますが、元々は亀井戸と書いていたもので、小説の原文は「亀井戸」となっています。