2014年 03月 13日
杉原千畝 |
先月、東京都や横浜の複数の図書館で300冊もの「アンネの日記」が何者かによって破損されるという事件が起きた衝撃のなかで、杉原千畝を名乗る人物から「アンネの日記」や関連本153冊が郵送で寄贈されてきた、と報じられた。
杉原千畝(1900-1986)はリトアニア・カウナスの日本領事館領事代理として、第二次大戦勃発中の1940年、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人に、日本通過のビザを発行した命の恩人として知られている。
杉原千畝のことを知ったのは、1990年頃JETRO(日本貿易振興機構)ニューヨーク事務所で、ユダヤ系アメリカ人の講演を聞いてからである。そのころ杉原のことを知っている日本人はほとんどいなかったと思うが、アメリカのユダヤ人社会では知らぬ者はいないほど、その名は代々語り継がれいる。かれらは杉原への恩義から、日本人全般に信頼をよせ、親日的である。当時住んでいたニュージャージーの我が家の隣人はユダヤ系アメリカ人であったが、慣れない異国での日常生活で何かと親身になって助けてくれた。今も交流は続いている。
「アンネの日記」破損事件が連日報じられていた先日、たまたま図書館で杉原千畝のことを書いた本「杉原千畝と外務省」(杉原誠四郎著・大正出版・1999年刊)が目に留まったので、借りて読んでみた。それによって、意外な事実を知った。(*著者は同姓であるが無関係)
本書によると、ドイツと防共協定締結関係にあり、三国同盟締結(1940年9月)を間近にひかえるという情勢にあって、外務省は、「避難民ト見做サレ得ヘキ者ニ対シテハ行先国ノ入国手続ヲ完了シ居リ、且旅行費及本邦滞在費等相当ノ携帯金ヲ有スルニアラザレバ通過査証ヲ与ヘサル様取計アリタシ」と厳しく制限する訓令を出している。
1940年7月、ポーランドから大挙してリトアニアに避難してきたユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。ほかに彼らを受け入れる国がなかったからである。しかし彼らには最終入国先のビザがなかった。訓令通りなら日本通過のビザは出せない。彼らは最終的にはアメリカに入国するのだが、この時点ではアメリカはユダヤ人に対して冷淡であった。そこで、駐リトアニア・オランダ領事館が、「オランダ領キュラソーにビザなしで入国できる」という証明書を出して協力したのだ。これは日本通過ビザ発行のため訓令をぎりぎり拡大解釈した杉原の便法である。
一方でわが国は、1938年、五省(陸軍、海軍、外務、内務、大蔵)会議で、「猶太人対策要綱」を定め、「連邦の排外スル猶太人ヲ積極的ニ帝國ニ包容スルハ原則トシて避クヘキモ、之をヲ独国ト同様極端ニ排斥スル態度ニ出ルハ、タダニ帝國ノ多年主張シキタレル人種平等ノ精神ニ合致セザルノミナラズ」という方針が決められていた。これには、他方で中国人や朝鮮人を差別していたことと矛盾しているのだが、当時日本自体が欧米との間で差別的扱いを受け、国連で人種差別撤廃を訴えていたという背景があった。三国同盟締結の推進者であった時の外務大臣松岡洋右は、日本の通過ビザは行き先国の入国許可を持った者にしか認めないとしながらも、日本滞在を10日とされた期限を延長して、一か月の滞在を認める便法を示唆しているのである。これは初めて知る意外な事実であった。*猶太人=ユダヤ人
こうして杉原は、リトアニアがソ連に併合されることになり日本領事館の閉鎖が8月25日に迫るという時間的制約の中で、夜を徹して6000人ものビザを発給した。この時点で後のナチスによる大虐殺(ホロコースト)が予見されていたわけではないが、杉原は結果として彼らの命を救ったとになったのである。だからかれらユダヤ人はいまだに杉原に感謝し続けているのである。
ところが外務省は一貫して彼の行動は訓令違反と咎めたのだ。戦後の抑留生活から帰国した1947年杉原は、岡崎勝雄次官から「例の件で責任を問われている。君のポストはない。退職していただきたい」と告げられ、外務省を追われた。(形式は依願退職)
1964年、杉原がイスラエル政府から招かれ勲章を授与されたとき、駐イスラエル日本大使館は杉原との接触を避けた。さらに1985年には、イスラエルの外務大臣が来日した歓迎レセプションの場で「諸国民の正義の人賞」を授与される杉原のことを、列席した中曽根首相も安倍外務大臣も知らなかったという。
本書は、外務省が、杉原に訓令違反の汚名を着せたままである一方、日米開戦の時、アメリカ政府への日本の宣戦布告手渡しが遅れたため「騙し討ち」とアメリカを怒らせる原因となった直接の責任者、ワシントン大使館の井口貞夫と奥村勝蔵の責任を問わず、それどころか彼らを戦後外務次官に出世させた外務省を繰り返し非難している。
外務省が杉原の名誉を回復したのは、2000年のことである。本書発行の翌年であった。
杉原千畝(1900-1986)はリトアニア・カウナスの日本領事館領事代理として、第二次大戦勃発中の1940年、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人に、日本通過のビザを発行した命の恩人として知られている。
杉原千畝のことを知ったのは、1990年頃JETRO(日本貿易振興機構)ニューヨーク事務所で、ユダヤ系アメリカ人の講演を聞いてからである。そのころ杉原のことを知っている日本人はほとんどいなかったと思うが、アメリカのユダヤ人社会では知らぬ者はいないほど、その名は代々語り継がれいる。かれらは杉原への恩義から、日本人全般に信頼をよせ、親日的である。当時住んでいたニュージャージーの我が家の隣人はユダヤ系アメリカ人であったが、慣れない異国での日常生活で何かと親身になって助けてくれた。今も交流は続いている。
「アンネの日記」破損事件が連日報じられていた先日、たまたま図書館で杉原千畝のことを書いた本「杉原千畝と外務省」(杉原誠四郎著・大正出版・1999年刊)が目に留まったので、借りて読んでみた。それによって、意外な事実を知った。(*著者は同姓であるが無関係)
本書によると、ドイツと防共協定締結関係にあり、三国同盟締結(1940年9月)を間近にひかえるという情勢にあって、外務省は、「避難民ト見做サレ得ヘキ者ニ対シテハ行先国ノ入国手続ヲ完了シ居リ、且旅行費及本邦滞在費等相当ノ携帯金ヲ有スルニアラザレバ通過査証ヲ与ヘサル様取計アリタシ」と厳しく制限する訓令を出している。
1940年7月、ポーランドから大挙してリトアニアに避難してきたユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。ほかに彼らを受け入れる国がなかったからである。しかし彼らには最終入国先のビザがなかった。訓令通りなら日本通過のビザは出せない。彼らは最終的にはアメリカに入国するのだが、この時点ではアメリカはユダヤ人に対して冷淡であった。そこで、駐リトアニア・オランダ領事館が、「オランダ領キュラソーにビザなしで入国できる」という証明書を出して協力したのだ。これは日本通過ビザ発行のため訓令をぎりぎり拡大解釈した杉原の便法である。
一方でわが国は、1938年、五省(陸軍、海軍、外務、内務、大蔵)会議で、「猶太人対策要綱」を定め、「連邦の排外スル猶太人ヲ積極的ニ帝國ニ包容スルハ原則トシて避クヘキモ、之をヲ独国ト同様極端ニ排斥スル態度ニ出ルハ、タダニ帝國ノ多年主張シキタレル人種平等ノ精神ニ合致セザルノミナラズ」という方針が決められていた。これには、他方で中国人や朝鮮人を差別していたことと矛盾しているのだが、当時日本自体が欧米との間で差別的扱いを受け、国連で人種差別撤廃を訴えていたという背景があった。三国同盟締結の推進者であった時の外務大臣松岡洋右は、日本の通過ビザは行き先国の入国許可を持った者にしか認めないとしながらも、日本滞在を10日とされた期限を延長して、一か月の滞在を認める便法を示唆しているのである。これは初めて知る意外な事実であった。*猶太人=ユダヤ人
こうして杉原は、リトアニアがソ連に併合されることになり日本領事館の閉鎖が8月25日に迫るという時間的制約の中で、夜を徹して6000人ものビザを発給した。この時点で後のナチスによる大虐殺(ホロコースト)が予見されていたわけではないが、杉原は結果として彼らの命を救ったとになったのである。だからかれらユダヤ人はいまだに杉原に感謝し続けているのである。
ところが外務省は一貫して彼の行動は訓令違反と咎めたのだ。戦後の抑留生活から帰国した1947年杉原は、岡崎勝雄次官から「例の件で責任を問われている。君のポストはない。退職していただきたい」と告げられ、外務省を追われた。(形式は依願退職)
1964年、杉原がイスラエル政府から招かれ勲章を授与されたとき、駐イスラエル日本大使館は杉原との接触を避けた。さらに1985年には、イスラエルの外務大臣が来日した歓迎レセプションの場で「諸国民の正義の人賞」を授与される杉原のことを、列席した中曽根首相も安倍外務大臣も知らなかったという。
本書は、外務省が、杉原に訓令違反の汚名を着せたままである一方、日米開戦の時、アメリカ政府への日本の宣戦布告手渡しが遅れたため「騙し討ち」とアメリカを怒らせる原因となった直接の責任者、ワシントン大使館の井口貞夫と奥村勝蔵の責任を問わず、それどころか彼らを戦後外務次官に出世させた外務省を繰り返し非難している。
外務省が杉原の名誉を回復したのは、2000年のことである。本書発行の翌年であった。
by rakuseijin653
| 2014-03-13 08:00
| 思想
|
Comments(0)