2015年 04月 13日
久能山東照宮に行ってきた |
身延山久遠寺を出てJR身延線で富士川を経て静岡に至り、久能山東照宮を訪ねた。折しも今年は、徳川家康がこの宮に鎮座して400年の回忌の年にあたる。JR静岡駅にも幟が見え、観光客の関心を呼び込んでいる。学校の春休みに加え、アジア系の観光旅行者が多くホテルはどこも満室、無計画の旅人は4軒目にして辛うじて一宿を得た。久能山(標高270m)へは日本平よりロープウエイが接続していて労することはない。
日光東照宮に比べると久能山東照宮はあまり知られていない。家康没後の翌年元和3年(1617)、2代将軍秀忠によって建てられた。社殿は日光東照宮にも通じる鮮やかな色彩で彩られている。2006年に塗り替えられたと知れば、なおさら合点がいく。江戸時代は20年ごとに、明治以降は50年ごとに塗り替えられているのだという。それが近年では、2006年であった。神殿全体は想像していたのとは違って、狭隘な谷間のような場所にやや窮屈そうに存在していたのが意外であった。
久能山にはかって推古天皇の時代にルーツを遡る久能寺があったが、武田信玄がここに久能城を築き寺は別地(現在の清水市村松)に移された。武田氏が滅亡した後、駿府を領有した家康も久能城を重要な防衛拠点とした。家康の没後、久能城は廃城となった。
以下、静岡市発行の小冊子「聖なる山・久能山」より一部転記。
「元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城で75年の生涯を閉じた。死を悟った家康は、生前に側近を呼び寄せ、自分の死後は遺骸を久能山に納め、葬式は江戸の増上寺で行い、位牌を岡崎の大樹寺に立て、一周忌を過ぎたころ日光に小さな堂を建て、霊を迎えてまつるよう命じた。家康の遺骸は亡くなったその日の夜に久能山に運ばれた。家康を神道の性格が強い「大明神」か、仏教の性格の強い「大権現」のどちらの神として祀るか、幕府で激しい議論が行われた。「大明神」として祀られた豊臣家が滅びたことから、東から日本を照らす「東照大権現」として祀られることになった」
参道 拝殿 神廟(家康が埋葬された場所。石塔は3代将軍家光の命で建てられた)
日光東照宮に比べると久能山東照宮はあまり知られていない。家康没後の翌年元和3年(1617)、2代将軍秀忠によって建てられた。社殿は日光東照宮にも通じる鮮やかな色彩で彩られている。2006年に塗り替えられたと知れば、なおさら合点がいく。江戸時代は20年ごとに、明治以降は50年ごとに塗り替えられているのだという。それが近年では、2006年であった。神殿全体は想像していたのとは違って、狭隘な谷間のような場所にやや窮屈そうに存在していたのが意外であった。
久能山にはかって推古天皇の時代にルーツを遡る久能寺があったが、武田信玄がここに久能城を築き寺は別地(現在の清水市村松)に移された。武田氏が滅亡した後、駿府を領有した家康も久能城を重要な防衛拠点とした。家康の没後、久能城は廃城となった。
以下、静岡市発行の小冊子「聖なる山・久能山」より一部転記。
「元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城で75年の生涯を閉じた。死を悟った家康は、生前に側近を呼び寄せ、自分の死後は遺骸を久能山に納め、葬式は江戸の増上寺で行い、位牌を岡崎の大樹寺に立て、一周忌を過ぎたころ日光に小さな堂を建て、霊を迎えてまつるよう命じた。家康の遺骸は亡くなったその日の夜に久能山に運ばれた。家康を神道の性格が強い「大明神」か、仏教の性格の強い「大権現」のどちらの神として祀るか、幕府で激しい議論が行われた。「大明神」として祀られた豊臣家が滅びたことから、東から日本を照らす「東照大権現」として祀られることになった」
参道
by rakuseijin653
| 2015-04-13 08:00
| 旅行・散策
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