2015年 04月 20日
清見寺と朝鮮通信使 |
清見寺(せいけんじ)は朝鮮通信使ゆかりの寺である。たまたまホテルのロビーで読んだ毎日新聞の記事、「日韓の縁 静岡から」でこの寺のことを知り久能山東照宮から足を延ばした。この記事は、日韓国交正常化50周年を機して静岡を訪れた柳興洙(ユ・スンフ)駐日韓国大使と川勝平太知事との対談を伝えている。話題は、駿府で生涯を終えてちょうど400年になる徳川家康が朝鮮通信使を再開させ、日韓修好に努めた歴史に及ぶ。
朝鮮通信使との交流は室町時代に始まったものだが、豊臣秀吉の文禄・慶長の役により断絶した。家康は1607年国交を再開するべく朝鮮通信使の訪日を要請し、彼らを迎え大いに歓待した。以後1811年まで12回の通信使が日本を訪れた。
清見寺は通信使の宿舎や休憩所として供され日本の儒学者や文人、画家らと交わった場所である。寺には、通信使が残した扁額「瓊瑶世界」(けいようせかい)や住職と通信使との筆談録が残っている。幼少期京都で育った柳大使は、日本のことはたいてい知っているつもりだったが恥ずかしながら清見寺は知らなかった、と言い、「瓊も瑶も玉を意味し、韓国と日本を表している」と述べている。
川勝知事は「静岡は400年以上にわたる日韓友好の歴史を見続けてきた所であり、家康が日本と朝鮮の関係修復に道筋をつけた場所が静岡である」と応じている。
清見寺は山号を巨鼇山(こごうざん)と称し創建は奈良時代に遡る。鎌倉時代に禅寺として再興した古刹である。大玄関の、清見関の古材を使用した天井板には血痕が残り、「血天井」となっている。これは鎌倉時代、梶原景時一族の清見関における戦乱の跡を今に伝えるものである。
*血天井(ちてんじょう)は、主に日本の戦国時代の武将が戦いで絶命した際の血痕が付いた建物の床板・縁板を、供養などのため天井に張り替えたと言われるもの。 (Wikipedia)
同寺は足利尊氏、今川義元の帰依を受け徳川家康が庇護した。家康が今川氏の人質であったとき勉強した寺であり、その部屋は、「家康公手習いの間」として今に残している。古来この寺には室町時代の画僧雪舟のほか明治時代には夏目漱石、島崎藤村などの文人が訪ねている。
≪故人の詠歌≫
いおはらのきよみがさきのみほのうら ゆたけきみつゝものおもひもなし 万葉集
清見(きよみ)がた波ものどかにはるゝ日は 関より近き三保の松原 兼好法師
この眺め 明かりて寂し 引き潮の 海苔の田遠く 清見寺見ゆ 北原白秋
清見寺(きよみでら) 海を仰ぎて うろくづも 救われぬべき 身と思ふらん
朝鮮通信使との交流は室町時代に始まったものだが、豊臣秀吉の文禄・慶長の役により断絶した。家康は1607年国交を再開するべく朝鮮通信使の訪日を要請し、彼らを迎え大いに歓待した。以後1811年まで12回の通信使が日本を訪れた。
清見寺は通信使の宿舎や休憩所として供され日本の儒学者や文人、画家らと交わった場所である。寺には、通信使が残した扁額「瓊瑶世界」(けいようせかい)や住職と通信使との筆談録が残っている。幼少期京都で育った柳大使は、日本のことはたいてい知っているつもりだったが恥ずかしながら清見寺は知らなかった、と言い、「瓊も瑶も玉を意味し、韓国と日本を表している」と述べている。
川勝知事は「静岡は400年以上にわたる日韓友好の歴史を見続けてきた所であり、家康が日本と朝鮮の関係修復に道筋をつけた場所が静岡である」と応じている。
清見寺は山号を巨鼇山(こごうざん)と称し創建は奈良時代に遡る。鎌倉時代に禅寺として再興した古刹である。大玄関の、清見関の古材を使用した天井板には血痕が残り、「血天井」となっている。これは鎌倉時代、梶原景時一族の清見関における戦乱の跡を今に伝えるものである。
*血天井(ちてんじょう)は、主に日本の戦国時代の武将が戦いで絶命した際の血痕が付いた建物の床板・縁板を、供養などのため天井に張り替えたと言われるもの。 (Wikipedia)
同寺は足利尊氏、今川義元の帰依を受け徳川家康が庇護した。家康が今川氏の人質であったとき勉強した寺であり、その部屋は、「家康公手習いの間」として今に残している。古来この寺には室町時代の画僧雪舟のほか明治時代には夏目漱石、島崎藤村などの文人が訪ねている。
≪故人の詠歌≫
いおはらのきよみがさきのみほのうら ゆたけきみつゝものおもひもなし 万葉集
清見(きよみ)がた波ものどかにはるゝ日は 関より近き三保の松原 兼好法師
この眺め 明かりて寂し 引き潮の 海苔の田遠く 清見寺見ゆ 北原白秋
清見寺(きよみでら) 海を仰ぎて うろくづも 救われぬべき 身と思ふらん
与謝野晶子
「巨鼇山清見寺畧記」より
清見寺はJR興津駅に近い。東海道に面しているが、1889年鉄道東海道本線付設の時敷地を提供し、線路が寺の総門と本堂の間を走っている。いわば境内の中を線路が走っているということであり、全国でも稀であろう。東海道本線は学生時代何度も往来しているがそのことは全く知らなかった。それを知る人もまた少なかろう。
清見寺仏殿(天保年間の改築)
五百羅漢石造(江戸時代中期天明八年の彫造) 朝鮮通信使由来の解説 ~ ~ ~ ~ ~ ~
「巨鼇山清見寺畧記」より
清見寺はJR興津駅に近い。東海道に面しているが、1889年鉄道東海道本線付設の時敷地を提供し、線路が寺の総門と本堂の間を走っている。いわば境内の中を線路が走っているということであり、全国でも稀であろう。東海道本線は学生時代何度も往来しているがそのことは全く知らなかった。それを知る人もまた少なかろう。
五百羅漢石造(江戸時代中期天明八年の彫造)
by rakuseijin653
| 2015-04-20 08:00
| 旅行・散策
|
Comments(1)
Commented
by
rakuseijin653 at 2016-01-07 10:18
漱石が清見寺を訪ねたことは、「門」の中の一文に書き表されていることを、連載中の朝日新聞で知りました。(2015年1月6日)
「(安井は)もし時間が許すなら、興津あたりで泊まって、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうといった」
「(安井は)もし時間が許すなら、興津あたりで泊まって、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうといった」
0