2015年 06月 13日
運転免許証を返納した |
79歳にして運転免許証を返納した。昭和36年に尾久自動車教習所(荒川区)に通い免許を取得して以来、54年になる。前回更新してここ3年間はまったく運転していない。もっぱら自転車が足代わりである。ペダルを踏んでいて、今さらながら自転車の解放感に気がついた。そうなると車の車内空間に圧迫感さえ感じるのだ。旅に出ても、効率よくレンタカーを利用するより路線バスやローカル電車のゆったり感がいい。というわけで、もう免許証を保持する必要がなくなったのである。
長い運転歴を振り返ると、色々想い出がある。
まだ東名高速道路が出来る前、東京から東海道を名古屋まで走った。友人と二人で、彼の親戚の家に泊まったのだが、わざわざ何を目的に名古屋まで行ったのか記憶がない。独身時代の身軽さでただドライブが目的だったのだろう。当時は今のように街道に気の利いたドライブインレストランがあるわけではなし、喉を潤したくても自動販売機があるわけでもない。それでも初めての長距離ドライブそのものが楽しかったのだ。
その後10年あまりを経て名古屋勤務となり、東名高速道路を10数回は往復しただろうか。
海外では、1985年、スイス・チューリッヒでレンタカーを借りてルッツエルンを散策、リヒテンシュタイン、オーストリアを通過し、ノイシュバインシュタイン城を観て、フュッセンからロマンチック街道をローテンブルクまで北上、ハイデルブルグに至る約700キロ?を走行した。フュッセンで宿泊する予定が途中の山道で宵闇に包まれ、急遽ホテルにキャンセルの電話を入れて最寄りの小さな宿に飛びこんだ。ドイツでは、話に聞いていた速度制限なしのアウトバーンも走った。
1989年には、アメリカ・ニュージャージー州の自宅からカナダ・ナイアガラ滝、トロント、オンタリオ湖、モントリオールを周遊して1200キロほど走った。トロントからモントリオールに向う高速道路の英語の標識が途中からフランス語併記になり、やがてフランス語だけになる。モントリオールがあるケベック州はフランス語が公用語だからだ。
1991年には、ロンドンから夜行寝台列車でスコットランド北部、インバネスまで行き、レンタカーを借りてネス湖を訪ね、古城を巡りながらエジンバラまで走った。
ネス湖はいかにもネッシーが現れ出るのではないかと思わせる神秘的な雰囲気があった。夏のスコットランドは夜9時でもまだ明るい。ついつい時間の感覚が鈍って道草をくい、予約していた民宿に着いたら他の客を入れていて断られてしまった。日が暮れてホテルを探しているうちに、立体交差道路の出口に危うく入り込むところであった。アメリカでの右側通行運転に慣れた感覚が、気が急いていたせいでとっさの時に出たのだ。バックミラーにパトカーが見えたが、何もお咎めがなかった。ナンバープレートからレンタカーと分かり、右側通行の国から来た外国人と判断したのだろうか。彼ら警察官にとっては「よくあること」だったのかもしれない。ロッホローモンドでの思い出である。
エジンバラ城は夜ライトアップされ、城内の広場で「ミリタリータトゥ」に魅了された。陸海空軍将兵とバグパイプ隊がそれぞれ隊列、編成を変えながら整然と行進するさまは華麗で、ただただカッコいい。そしてやはりアップライトアップされた男女の合唱団のコーラスが城内に響き渡る幻想的なシーンへと変わる。
思えば、モータリゼーション時代の到来が唄われ、その黎明期から半世紀以上楽しんだ車生活はここに終焉した。免許センターで免許証返納の手続きを終えて、「運転経歴証明書」なるものを受け取り、2階からの階段を降りながら頭をよぎったのは、長年の車生活との決別へのある種の感慨とともに、もう二度と運転することはないという一抹の寂しさであった。
運転経歴証明書 ミリタリータトゥ・エジンバラ城(周りを観客席が囲む)
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長い運転歴を振り返ると、色々想い出がある。
まだ東名高速道路が出来る前、東京から東海道を名古屋まで走った。友人と二人で、彼の親戚の家に泊まったのだが、わざわざ何を目的に名古屋まで行ったのか記憶がない。独身時代の身軽さでただドライブが目的だったのだろう。当時は今のように街道に気の利いたドライブインレストランがあるわけではなし、喉を潤したくても自動販売機があるわけでもない。それでも初めての長距離ドライブそのものが楽しかったのだ。
その後10年あまりを経て名古屋勤務となり、東名高速道路を10数回は往復しただろうか。
海外では、1985年、スイス・チューリッヒでレンタカーを借りてルッツエルンを散策、リヒテンシュタイン、オーストリアを通過し、ノイシュバインシュタイン城を観て、フュッセンからロマンチック街道をローテンブルクまで北上、ハイデルブルグに至る約700キロ?を走行した。フュッセンで宿泊する予定が途中の山道で宵闇に包まれ、急遽ホテルにキャンセルの電話を入れて最寄りの小さな宿に飛びこんだ。ドイツでは、話に聞いていた速度制限なしのアウトバーンも走った。
1989年には、アメリカ・ニュージャージー州の自宅からカナダ・ナイアガラ滝、トロント、オンタリオ湖、モントリオールを周遊して1200キロほど走った。トロントからモントリオールに向う高速道路の英語の標識が途中からフランス語併記になり、やがてフランス語だけになる。モントリオールがあるケベック州はフランス語が公用語だからだ。
1991年には、ロンドンから夜行寝台列車でスコットランド北部、インバネスまで行き、レンタカーを借りてネス湖を訪ね、古城を巡りながらエジンバラまで走った。
ネス湖はいかにもネッシーが現れ出るのではないかと思わせる神秘的な雰囲気があった。夏のスコットランドは夜9時でもまだ明るい。ついつい時間の感覚が鈍って道草をくい、予約していた民宿に着いたら他の客を入れていて断られてしまった。日が暮れてホテルを探しているうちに、立体交差道路の出口に危うく入り込むところであった。アメリカでの右側通行運転に慣れた感覚が、気が急いていたせいでとっさの時に出たのだ。バックミラーにパトカーが見えたが、何もお咎めがなかった。ナンバープレートからレンタカーと分かり、右側通行の国から来た外国人と判断したのだろうか。彼ら警察官にとっては「よくあること」だったのかもしれない。ロッホローモンドでの思い出である。
エジンバラ城は夜ライトアップされ、城内の広場で「ミリタリータトゥ」に魅了された。陸海空軍将兵とバグパイプ隊がそれぞれ隊列、編成を変えながら整然と行進するさまは華麗で、ただただカッコいい。そしてやはりアップライトアップされた男女の合唱団のコーラスが城内に響き渡る幻想的なシーンへと変わる。
思えば、モータリゼーション時代の到来が唄われ、その黎明期から半世紀以上楽しんだ車生活はここに終焉した。免許センターで免許証返納の手続きを終えて、「運転経歴証明書」なるものを受け取り、2階からの階段を降りながら頭をよぎったのは、長年の車生活との決別へのある種の感慨とともに、もう二度と運転することはないという一抹の寂しさであった。
運転経歴証明書
by rakuseijin653
| 2015-06-13 08:00
| 人生
|
Comments(1)
Commented
by
rakuseijin653 at 2015-09-08 20:18
9月9日夜10時、NHKBS-3で「古城がタータンを彩るとき」が放送されます。おそらく内容は、Military Tattooのことだと思います。
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