2016年 10月 26日
山田風太郎日記の今日的価値 |
先に、山田風太郎の「戦中派不戦日記」を引用したが(*ここ)、そのほかにも没後に「戦中派焼け跡日記」、「戦中派闇市日記」、「戦中派動乱日記」、「戦中派復興日記」が出版されている。この中で読了したのは「焼け跡日記」までであるが、膨大で綿密な筆力には驚嘆のほかない。特に、空襲に明け暮れていた戦中に、また世相が落ち着かない敗戦直後に、よくもこれだけの日記をしたためたものだと感じ入るのである。
これらの日記が現在貴重な記録として価値をもつのは、史書や戦記が体制側や勝者側にたって書かれたものが多いのに対して、これは「一般民衆側の記録」であるからだ。山田風太郎は、「戦国時代の民衆の記録」があれば、今どれだけ貴重な文献になっただろう、という。彼の一連の日記は、そういう意味での歴史的価値をもった記録と言えよう。
「不戦日記」の<まえがき>
「戦記や外交記録に較べれば、一般民衆の記録は、あるようで意外に少ない。さらにその戦記や外交記録にしても、その記録者がその出来事に直接参加していなかったり、また参加しているにもかかわらず、記録者自身の言動、そのなまの耳目にふれた周囲の雰囲気を活写したものが稀である。敗戦後十年ばかりこの現象を、私はアメリカに対して憚っているものと思っていた。
ところが、その後に至っても次々に出て来た記録は、数字的には正確になった面はあるものの、他方、意識的無意識的にかえって嘘や法螺や口ぬぐいや回想には免れがたい変質の傾向が甚だしくなったように感じられる。むしろ終戦直後の方が、腹を立ててかいているだけにかえって真実の息吹きを伝えているものが多いことを再発見した。
だから、あの戦争の、民衆側の真実の脈搏を伝える記録ができるだけ欲しい―――たとえば、戦国時代における民衆の精細な記録があれば今どれくらい貴重な文献になるだろう―――と私は思う。」
山田風太郎は、当時23歳の医学生であった。徴兵検査を受けるも、肺浸潤と診断され召集を免除されている。小学校の同級生は三十四人中十四人が戦死している。だから風太郎は、自分の日記が世に出ることの意味を了としながらも、傍観者であったことに忸怩たる思いを隠さない。
「敗戦日記」の<あとがき>には、
「国民のだれもが自由意志を以て傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても(友人が戦死したという)事実を想うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、或る意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあった。」と記す。
風太郎は自身を傍観者であったとは言っても荷風のような冷めた傍観者ではなく、皇国日本にあって敗戦前日の日記に「日本人が敵に降伏する?御冗談でしょう。日本人は玉砕は知っているが、降伏などはどんなものか知らないのだ。原子爆弾などにおったまげていたら屁もひれない」と書くような、鬼畜米英に燃える全き軍国青年でもあった。「不戦日記」を読めば、戦時中の民衆がいかに神国思想に洗脳されて誤った道を歩んでいったかということがわかるが、はたしてわれわれは、過去を省みて二度と同じ道を歩むことはないといえるのだろうか。
戦後23年を経て出版されたこの「日記」の<あとがき>を風太郎は、
「現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごとくである。日本人そのものがあの当時の日本人とは別の日本人であったのだ。しかし、それはほんとうに別の存在であるか。
私はいまの自分を『世を忍ぶかりの姿』のように思うことがある。そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。また三十年ほどたったら、今の日本人を軽佻浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにならないか。私も日本人も過去、現在、未来、同じものではあるまいか。
人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起こすことも」と結ぶ。(強調は引用者)
山田風太郎がこれを書いた「昭和48年の日本人」をわれわれは、「軽佻浮薄で滑稽な別の人種」であったと言えるだろうか。
むしろ、軽佻浮薄にして戦前回帰を目指す憲法草案を想考し、メディアへの言論抑圧をして恥じない厚顔な政権と、それに抗うことなく流されている「今現在の日本人」の絵図こそ、傍観者としてみれば滑稽にみえる。
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これらの日記が現在貴重な記録として価値をもつのは、史書や戦記が体制側や勝者側にたって書かれたものが多いのに対して、これは「一般民衆側の記録」であるからだ。山田風太郎は、「戦国時代の民衆の記録」があれば、今どれだけ貴重な文献になっただろう、という。彼の一連の日記は、そういう意味での歴史的価値をもった記録と言えよう。
「不戦日記」の<まえがき>
「戦記や外交記録に較べれば、一般民衆の記録は、あるようで意外に少ない。さらにその戦記や外交記録にしても、その記録者がその出来事に直接参加していなかったり、また参加しているにもかかわらず、記録者自身の言動、そのなまの耳目にふれた周囲の雰囲気を活写したものが稀である。敗戦後十年ばかりこの現象を、私はアメリカに対して憚っているものと思っていた。
ところが、その後に至っても次々に出て来た記録は、数字的には正確になった面はあるものの、他方、意識的無意識的にかえって嘘や法螺や口ぬぐいや回想には免れがたい変質の傾向が甚だしくなったように感じられる。むしろ終戦直後の方が、腹を立ててかいているだけにかえって真実の息吹きを伝えているものが多いことを再発見した。
だから、あの戦争の、民衆側の真実の脈搏を伝える記録ができるだけ欲しい―――たとえば、戦国時代における民衆の精細な記録があれば今どれくらい貴重な文献になるだろう―――と私は思う。」
山田風太郎は、当時23歳の医学生であった。徴兵検査を受けるも、肺浸潤と診断され召集を免除されている。小学校の同級生は三十四人中十四人が戦死している。だから風太郎は、自分の日記が世に出ることの意味を了としながらも、傍観者であったことに忸怩たる思いを隠さない。
「敗戦日記」の<あとがき>には、
「国民のだれもが自由意志を以て傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても(友人が戦死したという)事実を想うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、或る意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあった。」と記す。
風太郎は自身を傍観者であったとは言っても荷風のような冷めた傍観者ではなく、皇国日本にあって敗戦前日の日記に「日本人が敵に降伏する?御冗談でしょう。日本人は玉砕は知っているが、降伏などはどんなものか知らないのだ。原子爆弾などにおったまげていたら屁もひれない」と書くような、鬼畜米英に燃える全き軍国青年でもあった。「不戦日記」を読めば、戦時中の民衆がいかに神国思想に洗脳されて誤った道を歩んでいったかということがわかるが、はたしてわれわれは、過去を省みて二度と同じ道を歩むことはないといえるのだろうか。
戦後23年を経て出版されたこの「日記」の<あとがき>を風太郎は、
「現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごとくである。日本人そのものがあの当時の日本人とは別の日本人であったのだ。しかし、それはほんとうに別の存在であるか。
私はいまの自分を『世を忍ぶかりの姿』のように思うことがある。そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。また三十年ほどたったら、今の日本人を軽佻浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにならないか。私も日本人も過去、現在、未来、同じものではあるまいか。
人は変わらない。そして、おそらく人間のひき起こすことも」と結ぶ。(強調は引用者)
山田風太郎がこれを書いた「昭和48年の日本人」をわれわれは、「軽佻浮薄で滑稽な別の人種」であったと言えるだろうか。
むしろ、軽佻浮薄にして戦前回帰を目指す憲法草案を想考し、メディアへの言論抑圧をして恥じない厚顔な政権と、それに抗うことなく流されている「今現在の日本人」の絵図こそ、傍観者としてみれば滑稽にみえる。
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by rakuseijin653
| 2016-10-26 08:00
| 人生
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Comments(1)
Commented
by
rakuseijin653 at 2017-03-14 15:18
渡辺京二「風太郎の物語を作る才能はすでにこの日記群に十二分に表れている。汽車や電車の中、あるいは街頭で見かけた光景・出来事が、驚くべき詳しさで書きとめられている。観察力もなかなかだが、それよりも見たことを書きとどめる詳しさがすごい。日記と言うより、意図的な世相観察記なのである。日記でこれほど詳しい叙述・描写をするというのは、普通ありえないことだろう。まさしく作家本能の発露というしかいいようがない。しかも、20歳で文章が完成している。すでに一人前の作家といってよい文体なのだ。戦時中書かれた名文のひとつに数えても過褒ではない。生まれつきの文才であろうが、また読書も並みではない」(『幻影の明治』平凡社)
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