2017年 04月 26日
渡辺京二の「司馬遼太郎」論 |
渡辺京二の「明治の幻影・名もなき人びとの肖像」(平凡社)を読んだ。熊本市在住ながら、その分野では少なからぬ知識人(この言葉は好きではないが、ここでは世間の言い方に従っておく)がその著書から引用する思想史家・歴史家である渡辺京二(1930~)の存在を知ったのは近年である。
渡辺の著作を読むと、他とは違う切り口で歴史の実像や実態の表裏を、独特な筆致で書き綴った文章に出会う。ここでは、「明治の幻影」のなかで渡辺が司馬遼太郎について論評していることに触れたい。
もとよりわれわれが司馬遼太郎の小説を読むとき、司馬流の物語の展開、人物描写に引き込まれていくのだが、その合間に語られる時代背景などの司馬の薀蓄にも感心しながらページを進める。ところが渡辺に言わせると、これが眉唾物で与太話と断定するのである。まるで「講釈師 見てきたような嘘をつく」と言わんばかりである。「坂の上の雲」を引きながら次のように言う。
「私は司馬遼太郎のよい読者ではない。『燃えよ剣』や『峠』などは感心して読んだが、ある時期からだめになった。読んでいて、与太話ばかりと感じて、しらけてしまう。ひどい場合は退屈する。とにかく小説と銘打ちながら、講釈につぐ講釈で、その中身もとても本気でつきあえる代物ではない。その転機になったのが、『坂の上の雲』だったように思う。
何言ってるんだ、と言いたくなるところに数ページおきに出会うようになれば、読むのが苦痛になる。一例をあげよう。 『明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった』とは不思議な文章、奇天烈な認識というほかない。お話にもならぬ与太である。ポルトガルやオランダが日本よりずっと小さな国であるのは小学生でも知っているのだから、私が司馬の正気を疑うのは当然であろう。
あるいはこの『国』というのは国勢の意味なのだろうか。だとすると次の文章につながるわけだが、『産業といえば農業しかなく』とは司馬は本当に信じてそう書いたのか。幕末日本を訪れたヨーロッパ人は、当時の日本に展開していた市場経済のゆたかさに瞠目し、商品の廉価・品質のよさからいって、欧州産品はとてもはいりこめないと感じた。オールコックは機械動力以前の最高の段階と評している。蝦夷地での漁業はゴローヴニンが感嘆したほどであり、それがもたらす鰊粕は関西の棉作の肥料となった。
木綿産業はマニファクチユアの段階に達し、絹糸・絹織物は幕末開国後の貿易を支えた。銅山についていえば、江戸期の日本は世界有数の銅産出国で、長崎オランダ商館から輸出される日本銅はヨーロッパの銅価格に影響を与えた。以上は司馬が『坂の上の雲』を出版した時点における常識である。
人材は旧士族階級しかなかったというのも正しくない。民間の儒学者・蘭学者は十八世紀から輩出していたし、農民も庄屋層には学問・武術がよく浸透していた。でなければ十八世紀から十九世紀の北方問題のエクスパートたる最上徳内と間宮林蔵がともに農民の出自であるはずがなかったし、渋沢栄一という明治資本主義の建設者が関東豪農の出自たるはずもなかった。ようするに司馬の言い草は一から十まで事実に反する話なのである。」
「もう一つ例をあげよう。『戊辰から明治初年にかけて活躍する軍隊は、諸藩のいわば私軍であり、京都から東京に移った新政権は直属群をもたなかった』というのも不思議な言い草だ。新政権とは薩長を中心とする反幕連合であり、戊辰戦争を戦った薩長などの藩兵は『私軍』ではなく新政権直属の軍隊であった。むろんそれは各藩の利害を反映する藩兵であったが、そのことは各藩藩兵の統一指揮下にあった事実を打ち消すものではない。
しかしここまではまだよい。続けて『軍隊をもたぬ革命政権というのは、それ以前もその後もないといっていいであろう』というにいたっては挨拶に窮する。維新政権が維新派諸藩兵をもって戊辰戦争を戦った事実をふまえて『軍隊をもたぬ革命政権』というのだからおそれいる。そんなことをいうなら、ロシア革命において、革命政権の有した兵力がボリシェヴィッキ派、メンシェヴィキ派、エスエヌ派等々の『私軍』だったことをどう考えればよいのか。またメキシコ革命において、革命政府がオブレンコ、カランサなどの反乱軍、パンチョ・ヴィリヤ、サパタらの農民軍、司馬流にいえば『私軍』連合によって支えられていた事実をどうしてくれるのか。司馬のいうことは歴史的無知にもとづくナンセンスとしかいいようがない。」
「要するに、ここにいるのは張扇をもって机を摶ちつつ声を張り上げる講釈師なのである。誇張は客寄せの技術であるから、聴衆はいちいち目くじらを立てて聴かない。何かといえば、史上初めてと書きたがる司馬の筆癖も、講釈師の月並みな修正と思えば、咎め立てするのも気がひけるぐらいのものだろう。しかし、世に称して司馬史観という一世を風靡する史観のもちぬしとされる以上、彼の言説は吟味を免れぬはずである。
以上は司馬の『小説』、特に『坂の上の雲』以降のそれにはいちいち喉にひっかかるような講釈の小骨が頻出して、少なくとも私という読者はその不快感を克服せずには読めない事情をのべたまでである。『坂の上の雲』は、小説的部分と歴史談義部分の比重が逆転して、ほとんど小説の体をなしていない。」
「私は司馬史観なるものの構図に、いくつかの点疑念・異見をもつ。ゼロからの近代化と言うのがまず問題で、明治の近代化の成功は徳川期の遺産によるところが大きい。司馬は徳川期の日本を停滞した圧政的な社会とみなし、また経済的に貧しい後進国とみなす点で、明治以来の近代主義史観を一歩も出ていない。また、昭和期の国家指導についても、神がかりの夜郎自大と単純化するのは俗見にすぎぬと思う。さらに根本的には、司馬に近代化を相対化する視点がまったくかけていることにあきたらぬ思いを抑えがたい。」(強調は引用者)
引用が長くなってしまった。渡辺京二のもの言いは、「司馬の言うことは歴史的無知によるナンセンス」とか「小説の体を成していない」とか、熊本人らしい?ストレートなもので言いたい放題の感もあるが、その真意は「世に称して司馬史観という一世を風靡する史観」への異議であろう。一般的な読者は司馬の講釈に多少のひかっかりがあったとしても、それを上回る知識の量に感心しながら、物語や登場人物の描写に引き込まれて満足感をえている(例えば「明治の日本ほど小さな国はなかったであろう」というくだりも、それは表現のアヤとして読み過ごす)。渡辺はそういう読者が盲目的に「司馬史観」に陥らないよう“忠告”していると読める。
なおその渡辺も、「『小説』を全体的に見ると、明治人の野放図な大きさと明るさと健康さが活写されていて、挿話の扱いもよろしく、司馬の才能が十分発揮されている。司馬が描く明治初年の青年群像は、ナイーヴな野生が満ちあふれており、読んでいてすがすがしい。江戸時代は奇人を偏愛した時代で、その流儀が明治初期にはまだ遺存していたのだと思うが、こういった奇癖を通じて表れる人間の個性を抽出することにかけては、司馬には一流の腕前があった。」と一転して認めている。
渡辺の著作を読むと、他とは違う切り口で歴史の実像や実態の表裏を、独特な筆致で書き綴った文章に出会う。ここでは、「明治の幻影」のなかで渡辺が司馬遼太郎について論評していることに触れたい。
もとよりわれわれが司馬遼太郎の小説を読むとき、司馬流の物語の展開、人物描写に引き込まれていくのだが、その合間に語られる時代背景などの司馬の薀蓄にも感心しながらページを進める。ところが渡辺に言わせると、これが眉唾物で与太話と断定するのである。まるで「講釈師 見てきたような嘘をつく」と言わんばかりである。「坂の上の雲」を引きながら次のように言う。
「私は司馬遼太郎のよい読者ではない。『燃えよ剣』や『峠』などは感心して読んだが、ある時期からだめになった。読んでいて、与太話ばかりと感じて、しらけてしまう。ひどい場合は退屈する。とにかく小説と銘打ちながら、講釈につぐ講釈で、その中身もとても本気でつきあえる代物ではない。その転機になったのが、『坂の上の雲』だったように思う。
何言ってるんだ、と言いたくなるところに数ページおきに出会うようになれば、読むのが苦痛になる。一例をあげよう。 『明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった』とは不思議な文章、奇天烈な認識というほかない。お話にもならぬ与太である。ポルトガルやオランダが日本よりずっと小さな国であるのは小学生でも知っているのだから、私が司馬の正気を疑うのは当然であろう。
あるいはこの『国』というのは国勢の意味なのだろうか。だとすると次の文章につながるわけだが、『産業といえば農業しかなく』とは司馬は本当に信じてそう書いたのか。幕末日本を訪れたヨーロッパ人は、当時の日本に展開していた市場経済のゆたかさに瞠目し、商品の廉価・品質のよさからいって、欧州産品はとてもはいりこめないと感じた。オールコックは機械動力以前の最高の段階と評している。蝦夷地での漁業はゴローヴニンが感嘆したほどであり、それがもたらす鰊粕は関西の棉作の肥料となった。
木綿産業はマニファクチユアの段階に達し、絹糸・絹織物は幕末開国後の貿易を支えた。銅山についていえば、江戸期の日本は世界有数の銅産出国で、長崎オランダ商館から輸出される日本銅はヨーロッパの銅価格に影響を与えた。以上は司馬が『坂の上の雲』を出版した時点における常識である。
人材は旧士族階級しかなかったというのも正しくない。民間の儒学者・蘭学者は十八世紀から輩出していたし、農民も庄屋層には学問・武術がよく浸透していた。でなければ十八世紀から十九世紀の北方問題のエクスパートたる最上徳内と間宮林蔵がともに農民の出自であるはずがなかったし、渋沢栄一という明治資本主義の建設者が関東豪農の出自たるはずもなかった。ようするに司馬の言い草は一から十まで事実に反する話なのである。」
「もう一つ例をあげよう。『戊辰から明治初年にかけて活躍する軍隊は、諸藩のいわば私軍であり、京都から東京に移った新政権は直属群をもたなかった』というのも不思議な言い草だ。新政権とは薩長を中心とする反幕連合であり、戊辰戦争を戦った薩長などの藩兵は『私軍』ではなく新政権直属の軍隊であった。むろんそれは各藩の利害を反映する藩兵であったが、そのことは各藩藩兵の統一指揮下にあった事実を打ち消すものではない。
しかしここまではまだよい。続けて『軍隊をもたぬ革命政権というのは、それ以前もその後もないといっていいであろう』というにいたっては挨拶に窮する。維新政権が維新派諸藩兵をもって戊辰戦争を戦った事実をふまえて『軍隊をもたぬ革命政権』というのだからおそれいる。そんなことをいうなら、ロシア革命において、革命政権の有した兵力がボリシェヴィッキ派、メンシェヴィキ派、エスエヌ派等々の『私軍』だったことをどう考えればよいのか。またメキシコ革命において、革命政府がオブレンコ、カランサなどの反乱軍、パンチョ・ヴィリヤ、サパタらの農民軍、司馬流にいえば『私軍』連合によって支えられていた事実をどうしてくれるのか。司馬のいうことは歴史的無知にもとづくナンセンスとしかいいようがない。」
「要するに、ここにいるのは張扇をもって机を摶ちつつ声を張り上げる講釈師なのである。誇張は客寄せの技術であるから、聴衆はいちいち目くじらを立てて聴かない。何かといえば、史上初めてと書きたがる司馬の筆癖も、講釈師の月並みな修正と思えば、咎め立てするのも気がひけるぐらいのものだろう。しかし、世に称して司馬史観という一世を風靡する史観のもちぬしとされる以上、彼の言説は吟味を免れぬはずである。
以上は司馬の『小説』、特に『坂の上の雲』以降のそれにはいちいち喉にひっかかるような講釈の小骨が頻出して、少なくとも私という読者はその不快感を克服せずには読めない事情をのべたまでである。『坂の上の雲』は、小説的部分と歴史談義部分の比重が逆転して、ほとんど小説の体をなしていない。」
「私は司馬史観なるものの構図に、いくつかの点疑念・異見をもつ。ゼロからの近代化と言うのがまず問題で、明治の近代化の成功は徳川期の遺産によるところが大きい。司馬は徳川期の日本を停滞した圧政的な社会とみなし、また経済的に貧しい後進国とみなす点で、明治以来の近代主義史観を一歩も出ていない。また、昭和期の国家指導についても、神がかりの夜郎自大と単純化するのは俗見にすぎぬと思う。さらに根本的には、司馬に近代化を相対化する視点がまったくかけていることにあきたらぬ思いを抑えがたい。」(強調は引用者)
引用が長くなってしまった。渡辺京二のもの言いは、「司馬の言うことは歴史的無知によるナンセンス」とか「小説の体を成していない」とか、熊本人らしい?ストレートなもので言いたい放題の感もあるが、その真意は「世に称して司馬史観という一世を風靡する史観」への異議であろう。一般的な読者は司馬の講釈に多少のひかっかりがあったとしても、それを上回る知識の量に感心しながら、物語や登場人物の描写に引き込まれて満足感をえている(例えば「明治の日本ほど小さな国はなかったであろう」というくだりも、それは表現のアヤとして読み過ごす)。渡辺はそういう読者が盲目的に「司馬史観」に陥らないよう“忠告”していると読める。
なおその渡辺も、「『小説』を全体的に見ると、明治人の野放図な大きさと明るさと健康さが活写されていて、挿話の扱いもよろしく、司馬の才能が十分発揮されている。司馬が描く明治初年の青年群像は、ナイーヴな野生が満ちあふれており、読んでいてすがすがしい。江戸時代は奇人を偏愛した時代で、その流儀が明治初期にはまだ遺存していたのだと思うが、こういった奇癖を通じて表れる人間の個性を抽出することにかけては、司馬には一流の腕前があった。」と一転して認めている。
by rakuseijin653
| 2017-04-26 08:00
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