2017年 07月 06日
SNS社会の課題 |
毎朝食事のあと、ソファーで新聞を読み2時間ほどタブレットでツイッターをたぐり、情報を得るのが日課である(昼食後、就寝前に各約1時間)。JR山手線などの車内で、両側横一列に座っている乗客のほとんどが、例外なくスマホに目をやっている姿を冷ややかに見ていたのに、おそらく同じポーズでタブレットを覗いている自分の姿を想像して苦笑せざるをえない。
フォローするのはトランプ大統領から内外のジャーナリスト、各界の学者、評論家、一般人と様々だ。トランプ大統領を例外として、フォローする相手は概ねそのツイート(意見・主張)に共感し賛同できる発信者が多く、それらから刺激も受ける。しかしそうは言っても、たまにそれらの発信者を経由して偏見に満ちたものが目に入ることになる。
彼らに共通するのは、自分に都合の悪い事実や情報からは目をそらし、ものごとの一面だけを見て決めつけていることである。それらには思考力も想像力もない。別に珍しい例ではないが、先日「親類から戦後、中国人は日本人を虐殺したと聞いた。中国人は怖い」というツイートがあった。日本の中国侵略の結果であること、日本人がはるかに上回る中国人を虐殺した事実を無視して、聞きかじりの知識で決めつける。偏見者の典型である。これが、学校で近代史を学んでいないと言われる若い世代だけではないから、世の中はやっかいだ。
例えば、南京虐殺を公然と否定する作家の百田尚樹や戦前派の老政治家、中山成彬のような者だ。彼らが、過激な言葉を使うのも共通している。
安倍首相と親交の深い百田尚樹は、「もし北朝鮮のミサイルが日本に落ちて、朝日新聞が誤射かも知れない、と報道したら、社長を半殺しにする」というようなことをツイートしている。非難する者には、冗談だ、とうそぶく。冗談としては度が過ぎている。自民党の会合で、「沖縄の2紙(新聞)はつぶさなければならない」と放言した男である。冗談だとは受け取れまい。そしてそれに喝采する一団が存在する。
安倍首相は、知人の劇作家が、首相の不当関与の疑惑が問われている加計学院問題を追及する朝日新聞の報道を、「『言論テロ』と言っていいじゃないか。およそ『報道』ではない。狂っている」と投稿したフェイスブックに、賛同を意味する「いいね」を押した。メディアの報道に対して「言論テロ」とか「狂っている」と言い放っていることに一国の首相が「いいね」と言って喜々としていることこそ、狂っているとしか言いようがない。
このように、誰もが情報を発信できるSNSの普及で、社会全体に変化が起きているのだ。多様な情報が瞬時に地球全体に行きわたる便利さを手に入れた一方で、根拠のない情報や気に入らないものを誹謗中傷する発信が社会を歪め、政治にも影響を及ぼすという深刻な事態を現出するところまでになっているのである。最近、こういう現象を嘆く識者の発言をみるようになった。例えばアメリカのキッシンジャー元国務長官の次のような発言である。
「インターネットでボタンを押すだけで実に多くの情報を得ることができる。しかし、それが可能になったことによって、我々は得られた情報を記憶する必要がなくなったことが問題なのだ。得た情報を記憶しなくなると、様々な情報を取り入れて体系的に思索するということができなくなる。
それでどうなったかといえば、知識が著しく損なわれる結果を招くことになった。そして何もかもが感情に左右されるようになり、ものごとを近視眼的にしかみられなくなる。私は、これを大きな問題と思っている。
多くの人がこの事象を研究して、対策を考えるべきだろう」(中央公論3月号)
また、東浩紀(作家・評論家)は、次のように述べている。(中央公論7月号遠藤乾北大教授との対談「可視化された民衆の欲望が民意を歪める」)
「(SNS界の異常さは)もう臨界点にあることは事実で、何かシステム的な技術革新が起きて、正常なネット空間に近づいていく、と期待したいのですが」
「無数の無意識の意識を可視化したうえで、リアルタイムで変動していく鵺(ぬえ)のような存在をどのように制御していくのか、新しい課題が出てくる。そこでは全く別の原理で動く政治的意思というものが必要になるのではないか。そうでないと、動物として欲望にまみれていけばよい、ということになってしまう」
(強調は引用者)
キッシンジャーも東浩紀も、体系的な知識の蓄積を欠く情報が野放図に放たれている現状に、それらを制御する何かの対策が必要な段階にあると言うが、実際の所、「正常なネット空間」の実現は期待できるのだろうか。「言論の自由」との狭間で、呻吟はつづくだろう。
「駐日ドイツ大使館」もフォローの一つ ~ ~ ~ ~ ~ ~
フォローするのはトランプ大統領から内外のジャーナリスト、各界の学者、評論家、一般人と様々だ。トランプ大統領を例外として、フォローする相手は概ねそのツイート(意見・主張)に共感し賛同できる発信者が多く、それらから刺激も受ける。しかしそうは言っても、たまにそれらの発信者を経由して偏見に満ちたものが目に入ることになる。
彼らに共通するのは、自分に都合の悪い事実や情報からは目をそらし、ものごとの一面だけを見て決めつけていることである。それらには思考力も想像力もない。別に珍しい例ではないが、先日「親類から戦後、中国人は日本人を虐殺したと聞いた。中国人は怖い」というツイートがあった。日本の中国侵略の結果であること、日本人がはるかに上回る中国人を虐殺した事実を無視して、聞きかじりの知識で決めつける。偏見者の典型である。これが、学校で近代史を学んでいないと言われる若い世代だけではないから、世の中はやっかいだ。
例えば、南京虐殺を公然と否定する作家の百田尚樹や戦前派の老政治家、中山成彬のような者だ。彼らが、過激な言葉を使うのも共通している。
安倍首相と親交の深い百田尚樹は、「もし北朝鮮のミサイルが日本に落ちて、朝日新聞が誤射かも知れない、と報道したら、社長を半殺しにする」というようなことをツイートしている。非難する者には、冗談だ、とうそぶく。冗談としては度が過ぎている。自民党の会合で、「沖縄の2紙(新聞)はつぶさなければならない」と放言した男である。冗談だとは受け取れまい。そしてそれに喝采する一団が存在する。
安倍首相は、知人の劇作家が、首相の不当関与の疑惑が問われている加計学院問題を追及する朝日新聞の報道を、「『言論テロ』と言っていいじゃないか。およそ『報道』ではない。狂っている」と投稿したフェイスブックに、賛同を意味する「いいね」を押した。メディアの報道に対して「言論テロ」とか「狂っている」と言い放っていることに一国の首相が「いいね」と言って喜々としていることこそ、狂っているとしか言いようがない。
このように、誰もが情報を発信できるSNSの普及で、社会全体に変化が起きているのだ。多様な情報が瞬時に地球全体に行きわたる便利さを手に入れた一方で、根拠のない情報や気に入らないものを誹謗中傷する発信が社会を歪め、政治にも影響を及ぼすという深刻な事態を現出するところまでになっているのである。最近、こういう現象を嘆く識者の発言をみるようになった。例えばアメリカのキッシンジャー元国務長官の次のような発言である。
「インターネットでボタンを押すだけで実に多くの情報を得ることができる。しかし、それが可能になったことによって、我々は得られた情報を記憶する必要がなくなったことが問題なのだ。得た情報を記憶しなくなると、様々な情報を取り入れて体系的に思索するということができなくなる。
それでどうなったかといえば、知識が著しく損なわれる結果を招くことになった。そして何もかもが感情に左右されるようになり、ものごとを近視眼的にしかみられなくなる。私は、これを大きな問題と思っている。
多くの人がこの事象を研究して、対策を考えるべきだろう」(中央公論3月号)
また、東浩紀(作家・評論家)は、次のように述べている。(中央公論7月号遠藤乾北大教授との対談「可視化された民衆の欲望が民意を歪める」)
「(SNS界の異常さは)もう臨界点にあることは事実で、何かシステム的な技術革新が起きて、正常なネット空間に近づいていく、と期待したいのですが」
「無数の無意識の意識を可視化したうえで、リアルタイムで変動していく鵺(ぬえ)のような存在をどのように制御していくのか、新しい課題が出てくる。そこでは全く別の原理で動く政治的意思というものが必要になるのではないか。そうでないと、動物として欲望にまみれていけばよい、ということになってしまう」
(強調は引用者)
キッシンジャーも東浩紀も、体系的な知識の蓄積を欠く情報が野放図に放たれている現状に、それらを制御する何かの対策が必要な段階にあると言うが、実際の所、「正常なネット空間」の実現は期待できるのだろうか。「言論の自由」との狭間で、呻吟はつづくだろう。
「駐日ドイツ大使館」もフォローの一つ
by rakuseijin653
| 2017-07-06 08:00
| 雑記
|
Comments(0)