2017年 11月 25日
北御門二郎(2) |
「北御門二郎」(2014年3月20日投稿)へのアクセスがこのところ増えている。それに“偶然”が重なる。
比較憲法学者樋口陽一氏(東北大・東大名誉教授・1934~)が、18日の朝日新聞土曜版のコラム「温故知新」で、北御門二郎のことを書いている。北御門二郎の兄が樋口氏の父の教え子で、氏は、学生時代に熊本の北御門二郎の家に泊まったことがある、というのだ。
このエッセーでK氏としている北御門の兄は、東北大学工学部教授であった父親の教え子で、樋口氏は子供のころから知っていた。K氏は、大会社に就職後日中戦争が始まり、兵器製造の場に直接かかわることは信仰上とてもできない、と告白し、父親の研究室に居続けることの許しを求めてきたという。どうやら反戦思想は、北御門兄弟に共通するDNAであったようだ。以下、エッセーの続き。
「研究者の途を貫き、戦後ある国立大学の教授職についたK氏の生き方は、父に深い感銘を与えたに違いない。少年後期にさしかかった私たち兄弟に、門下生への尊敬といえるほどの思いを一度ならず語ってくれたのだから。
そうした話題の中にK氏の弟君のことがあった。のちに『ある徴兵拒否者の歩み』(地の塩書房)の著者となり,山間で自給自足の農の営みにはげみながら、ひたすら続けてきたトルストイの多くの著作の訳業で知られることになる、北御門二郎さんである。
氏の生きた軌跡、その信仰とトルストイへの傾倒、翻訳に打ち込み公刊を続けることとなった経緯――。それらに行き届かぬ筆を及ぼすより、北御門さんの晩年に心の深いところで接し続けていた、ぶな葉一さんが、あえて『児童書』として出版した『北御門二郎――魂の自由を求めて』(銀の鈴社)を手に取って頂きたい。
その北御門さんを農業とトルストイの日常の場に訪ねたのは今から二十年ほど前、憲法の市民運動に打ち込む人々と一緒だった。宮崎県との境に近い熊本の山間で営まれる天水と肥桶の自然農法、それに相応しいご夫妻の小さな居宅。
実は、更に遡って大学時代の春、私は友人とテントを背負って九州の山巡りをし、北御門ご兄弟の生家で一泊の歓待を受けていたのだ。落ち着いた佇まいの中に歴史を感じさせる旧家の風格に強く印象づけられたことを思い出しながら、数十年後、対面している温顔の八十翁の、優しくも凛とした口調に聴き入った。そこには、翁が自らに課した青春の試練、それを突き抜けて慥(たし)かに『今』を生きている人間が周囲に作り出す、『生きる』ことの意味についての自ずからなる教訓があった」
ネットで調べると、K氏とは北御門良夫氏である。樋口陽一氏の弟、龍雄氏(東北大学情報科学研究科教授)が、退官時に同大学広報誌に寄せた文章の中に見える。
「私が中学生の頃父からよく北御門良夫氏の話を聞かされました。氏は昭和十二年、本学機械工学科を卒業し某会社に就職しました。ある日北御門良夫氏は父を訪れ、『工場では機関銃を作っているが、どうしても武器製造に直接加担したくない』との理由からしばらく研究室において欲しいとの話でした。本人にとって当時の状況からすれば、そのことは弾圧を受けるかも知れず、経済的にも大変苦しくなることを意味します。父は研究室に迎え、氏は戦後国立大学の教授を務め、退官後は郷里の熊本で余生を過ごしました。そのような門下生北御門氏の生き方に対して、生前父は大変敬愛しておりました。
そのおり、良夫氏には面白い弟がおられることも聞きました。青年時東京大学英文科に進むが授業に飽きたらず退学、死を覚悟して徴兵拒否を貫きました。いまは熊本の山奥で晴耕雨読の生活を送り、農民のように、いや農民として生きていること。それを語る時の父は、何か遠くを見ているようでありました。本当は門下生でありながらそのような生き方ができる兄弟がなかばうらやましく思っているだろうことは、中学生の私にもすぐわかりました。
そのころの兄は大学生で、親友と二人でザックを背負い九州の山々を数週間かけて踏破する計画を立てていました。その行程にはもちろん山登り姿で北御門氏を訪ねることが含まれておりました。当時氏は今のように名前が知られているわけでもなく、真から農民でありました。農耕のかたわらトルストイ研究に専念しつつ、絶対的非暴力の思想と立場をとっていました。北御門氏と兄との出会いがどのようなものであったか、ことさら聞いておりませんが、後の兄の生き方に何らかの影響を与えたのではないかと想像しております」
「中学生の頃から今日に至るまで、私は氏のことがずっと気になっていたことは間違いありません。北御門二郎氏と私には直接的な交流、関係はありませんが、冒頭述べました『自分にとって学問のより根源的なところ』をかなり形作っているような気がします。」
樋口陽一氏は昨年(2016)の安保法制に反対して、81歳の身で雨中の国会前で演説をしている。また、「立憲政治を取り戻す国民運動委員会」を結成するなどして具体的に行動する学者である。そこには、弟の龍雄氏が言うように、「北御門二郎氏との出会いが後の兄の生き方に何らかの影響を与えた」ことがあるのかもしれない。
北御門兄弟の生き方は、樋口兄弟の「学問のより根源的なところ」を形作るうえでの影響を与えたのである。
樋口陽一氏とはるか熊本に住む北御門二郎の縁は、兄の北御門良夫が東北大学で学んだことにより生まれた。人生の一つの「出会い」を見ることができる。
*熊本から東北大学工学部に学んだ中の一人に、松前重義(東海大学創立者)がいる。戦時中逓信院総裁時代に、日米戦力比較から勝算なきことを指摘したため東条英機首相の怒りをかい、松前は二等兵として戦場に送られた。
~ ~ ~ ~ ~ ~
by rakuseijin653
| 2017-11-25 08:00
| 人生
|
Comments(0)