2021年 04月 15日
陸軍の横暴を指弾した斉藤隆夫 |
「血を見た」二・二六事件にひるむことなく、陸軍の横暴を指弾し続けたのが民政党所属の衆議院議員斉藤隆夫である。
後に「反軍演説」により国会から除名され歴史に名を残すことになる斉藤は、まだ事件の硝煙が残る昭和11年5月、広田政権下の国会で陸軍の横暴を鋭く批判した。一般社会での言論が制約される時代であったが、国会における議員の言論はまだ保証されていたのである。
二・二六事件で襲撃目標とされるも難を免れた岡田首相に代わって組閣された広田弘毅内閣に対して「陸軍大臣に予定された寺内寿一が政友会、民政党からの入閣予定者に異議を唱え、広田がその意に応じて入閣予定者を入れ替えると、今度は両党からそれぞれ2名の入閣は多すぎるとクレームをつけた。広田は後の方は拒絶したが、陸軍はさらに対外政策や軍事費の増強にまで条件をつけた」(坂野書)
斉藤の演説は、このような状況でなされた。以下も坂野書『昭和史の決定的瞬間』より。
昭和11年5月7日第69議会「粛軍演説」
「国民的尊敬の的となられたところの高橋蔵相、斉藤内府(内大臣)、渡辺総監のごとき温厚篤実である陛下の重臣が国を護るべき統帥権の下にあるところの軍人の銃剣によって虐殺せらるるにいたっては、軍を信頼するところの国民にとっては、実に堪えがたき苦痛であるのであります。それにも拘らず彼ら(国民)は、今日の時勢、言論の自由が拘束せられておりますところの今日の時代において、公然とこれを口にすることは出来ない。今回叛乱後の内閣組織に当たりましても、事件について重々なるところの責任を担うておられる軍部当局は、相当に自重せられることが国民的要望であったにもかかわらず、あるいは某々の省内には政党人入るべからず、某々は軍部の思想と相容れないからしてこれを排撃する。
もっとも公平なるところの粛正選挙によって国民の総意を明に表白せられ、これを基礎として政治を行うのが、明治大帝の降ろしたまいし立憲政治の大精神であるにもかかわらず、一部の単独意思によって国民の総意が蹂躙せらるるがごとき形勢が見えるのは、はなはだ遺憾千万のいたりに堪えないのであります。
それでも国民は沈黙し、政党も沈黙しておるのである。しかしながら、考えてみれば、この状態がいつまで続くか、人間は感情的の動物である。国民の忍耐力には限界があります」
この演説に加え斉藤は、同年10月、議会外でも筆法鋭く陸軍を批判した。
昭和11年中央公論10月号「極東外交及び国防の調整」
「満州を乗り越えてさらに進んで(帝国主義の遂行を図らんとするに*)あるとするならば、これがために第一に起こるべき支那との接触をいかに調整し、対支外交をいかに導かんとするのであるか。・・・吾人は日支親善の繰り言を聞くこと、随分久しきにわたっているが、その効果はいささかも見るべきものなきのみならず、近時両国の関係はむしろ反対に傾きつつあることは、争われない事実である。・・・甲乙互いに利害を異にしておきながら、甲は乙の手を握って親善の実を求めんとする、乙は力およばずしてやむを得ず同意するも、これを以て親善の実を挙げえたりと思うは、天下の痴人である。
今日の急務はまず以て対支・対露の外交を調整すると同時に、大陸政策の限界を確立し、ひいては国防計画に適当の変更を加え、その余力を割いて産業の振興、国民生活の安定に資するにあり。・・・政府および政党はこの重大問題について大いに考えうるところがなくてはならぬと思うから、あえてこの一文を草して天下の識者に資するゆえんである」(強調は引用者)
斉藤はこの論文で、「(陸軍の)新国防計画が満州を超えて中国本土への侵略を目指すものであることを批判し、力によって押しつけた『日中親善』を信じる者は『天下の痴人』であると断言した」のである。(坂野書)
この後、翌年(昭和12年)1月の第70議会での政友会浜田国松と陸相寺内寿一との割腹問答(後述)により広田内閣は総辞職となるが、それをうけて政友、民政両党が画策した宇垣内閣が、またもや陸軍の妨害により流産したのは既述の通りである。
(*)は誌上では伏字。本論文は民政党機関誌に伏字なしで転載された。
*斉藤隆夫「粛軍に関する質問演説」全文https://blechmusik.xii.jp/d/saito/s13/
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by rakuseijin653
| 2021-04-15 08:00
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