2012年 09月 25日
県民性・熊本人の場合 |
国民性があれば、県民性がある。グローバル化、国際化の世の中に、県民性という小さな領域のことを云々する時代ではないと言う向きもあろうが、DNAは消えるものではない。
会社に入って、「出身は?」と問われ、「熊本です」と言うと大半の者が、「ああ、肥後もっこすか」と反応した。熊本はおろか九州にも行ったことのない者までもそう言うのである。「もっこす」の彼らの理解は、単純に“頑固者”という程度のものであろうが、同じ意味合いを持つ高知の「いごっそ」より”知名度”が高い。
司馬遼太郎によれば、「肥後もっこす」の”ルーツ”は平安時代にあるというから年季が入っている。この時代の「三代実録」という本の中に、「肥後は大変なところであり、豪族がたくさんいる。人々は頑固で、みな違ったことを言う。国司になって行って傷ついて帰ってくる人が多い」とあるそうだ。
司馬の著、「この国のかたち」(文芸春秋社)の『肥後の場合』に、「豊臣時代には、『肥後は難治のくになれば』という言葉がよくつかわれた」、とある。江戸時代には、細川重賢が興した藩校の学長に指名された秋山玉山が重賢に対して、「肥後は一人ひとりの考えが違って、頑固で自説を曲げない土地柄です」と言ったという(司馬の講演録)。「明治以降は、“一人一党”とか“肥後もっこす”などといわれ、自分の価値観をたてて容易に譲らない風土とも言われた」(「この国のかたち」)。
さすが大作家である。“史実”を踏まえて熊本人の特徴(欠点?)をものの見事に指摘しているのには恐れ入る。わが身を振り返らずとも心当たりがあり過ぎるのである。
さらに、司馬は次のように述べている。
「ムシャがよか」という古い熊本弁は、カッコヨイという意味として使われてきた。『日葡辞書』にはmuxaburigayoiということばで載っている。“ムシャガヨカ”というのは、単に武勇があっていさぎよい、というだけでなく、その人物に表裏がなく、正直で陰険な政略を用いず、また晦渋でない、ということも重要な条件に違いない」(「この国のかたち」)(強調は引用者)
会社に入って、「出身は?」と問われ、「熊本です」と言うと大半の者が、「ああ、肥後もっこすか」と反応した。熊本はおろか九州にも行ったことのない者までもそう言うのである。「もっこす」の彼らの理解は、単純に“頑固者”という程度のものであろうが、同じ意味合いを持つ高知の「いごっそ」より”知名度”が高い。
司馬遼太郎によれば、「肥後もっこす」の”ルーツ”は平安時代にあるというから年季が入っている。この時代の「三代実録」という本の中に、「肥後は大変なところであり、豪族がたくさんいる。人々は頑固で、みな違ったことを言う。国司になって行って傷ついて帰ってくる人が多い」とあるそうだ。
司馬の著、「この国のかたち」(文芸春秋社)の『肥後の場合』に、「豊臣時代には、『肥後は難治のくになれば』という言葉がよくつかわれた」、とある。江戸時代には、細川重賢が興した藩校の学長に指名された秋山玉山が重賢に対して、「肥後は一人ひとりの考えが違って、頑固で自説を曲げない土地柄です」と言ったという(司馬の講演録)。「明治以降は、“一人一党”とか“肥後もっこす”などといわれ、自分の価値観をたてて容易に譲らない風土とも言われた」(「この国のかたち」)。
さすが大作家である。“史実”を踏まえて熊本人の特徴(欠点?)をものの見事に指摘しているのには恐れ入る。わが身を振り返らずとも心当たりがあり過ぎるのである。
さらに、司馬は次のように述べている。
「ムシャがよか」という古い熊本弁は、カッコヨイという意味として使われてきた。『日葡辞書』にはmuxaburigayoiということばで載っている。“ムシャガヨカ”というのは、単に武勇があっていさぎよい、というだけでなく、その人物に表裏がなく、正直で陰険な政略を用いず、また晦渋でない、ということも重要な条件に違いない」(「この国のかたち」)(強調は引用者)
これを言葉を変えて言えば、熊本人は本音と建前の違い(差)がなく(小さく)、ものごとをストレートに言う、ということである。これらは、曖昧さをよしとすることが多い日本の平均的社会では、時に周囲から突出し疎まれたりする。しかし、国際社会ではそれが普通である。以前、アラブ人との交渉事で、「おまえはアメリカ人のようだ」と言われたことがある。ストレートな言い方が、彼が今まで接してきた日本人と違う、ということのようである。熊本人は昔から国際人であったのだ。
*2019年3月21日追記
by rakuseijin653
| 2012-09-25 10:00
| 人間のタイプ
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