2012年 10月 04日
いつ変わった?-----JR駅の発車チャイム |
リタイヤ―してから都心へ出かけることが少なくなったのでJRを利用する機会も減った。それでいつからのことか分からないが、あのへんてこりんのメロディを、けたたましい音量で流していた発車チャイムが変わって、今は音量を抑えた静かな発車合図になっていることに気が付いた。
以前は、センスの悪いメロディを電子音のチャイムにして耳をつんざくような音を発車合図にしていた。それは単にうるさいと言うだけでなく、神経を苛立たせるほどのものであった。しかも都会だけでなく郊外の駅でも、ラッシュアワーだけでなく乗降客が少ない日中も、区別なく機械的に流されていたのである。別に、投書魔ではないつもりだが、JRに、何とかならないかと手紙を出したことがある。意外にも返事が来た。それは、客の安全のためであり、それを望む客もいる、といういかにも官僚的な回答であった。こちらは、発車合図が不要と言っているのではなく、音質、音量について注文をつけたのだが、正面から答えることを避けたものであった。そのころ新聞紙上にも、改善を望む投書があったし、音楽家の玉木宏樹や藤田崇文などもメディアで批判していたのだが、変わる気配はなかったのでる。それが変わったのは、まともな音感を持った者が担当者になったからなのか、いずれにしても結構なことである。
都市に限らず欧米に比べて気が付くのは、日本は目に入る「景観」、耳に入る「音」が“きたない”ということである。「音」について言えば、欧米の鉄道駅では発車合図さえない国がある。時間が来ると黙って発車するのである。鉄道利用者の数に彼我の差があるとはいえ、日本の鉄道、特にJRの駅で毎日、朝から夜まで繰り返されていた“人工騒音”は異常であった。そのほかにも、選挙カーの連呼や右翼の街宣車の音量、野球場の応援の鳴り物がある。これらに何も文句を言わない日本人の音に対する感性は一般に鈍い、と思う。
クラシック音楽の通を自認する人が、コンサート、あるいはオペラを鑑賞して感動した後、帰りの駅で、あのけたたましい人工音を聞いて何とも思わないとすれば、それは似非クラシック通である。
なお、ネットには09年6月に、JRの発車チャイムが耳障りであると書いたブログがあるので、現在のものに変わったのはつい2年ほど前のことではないだろうか。このブログには、都会と同じメロディがのどかな青森でも流れていたのには呆れたと書かれている。
以前は、センスの悪いメロディを電子音のチャイムにして耳をつんざくような音を発車合図にしていた。それは単にうるさいと言うだけでなく、神経を苛立たせるほどのものであった。しかも都会だけでなく郊外の駅でも、ラッシュアワーだけでなく乗降客が少ない日中も、区別なく機械的に流されていたのである。別に、投書魔ではないつもりだが、JRに、何とかならないかと手紙を出したことがある。意外にも返事が来た。それは、客の安全のためであり、それを望む客もいる、といういかにも官僚的な回答であった。こちらは、発車合図が不要と言っているのではなく、音質、音量について注文をつけたのだが、正面から答えることを避けたものであった。そのころ新聞紙上にも、改善を望む投書があったし、音楽家の玉木宏樹や藤田崇文などもメディアで批判していたのだが、変わる気配はなかったのでる。それが変わったのは、まともな音感を持った者が担当者になったからなのか、いずれにしても結構なことである。
都市に限らず欧米に比べて気が付くのは、日本は目に入る「景観」、耳に入る「音」が“きたない”ということである。「音」について言えば、欧米の鉄道駅では発車合図さえない国がある。時間が来ると黙って発車するのである。鉄道利用者の数に彼我の差があるとはいえ、日本の鉄道、特にJRの駅で毎日、朝から夜まで繰り返されていた“人工騒音”は異常であった。そのほかにも、選挙カーの連呼や右翼の街宣車の音量、野球場の応援の鳴り物がある。これらに何も文句を言わない日本人の音に対する感性は一般に鈍い、と思う。
クラシック音楽の通を自認する人が、コンサート、あるいはオペラを鑑賞して感動した後、帰りの駅で、あのけたたましい人工音を聞いて何とも思わないとすれば、それは似非クラシック通である。
なお、ネットには09年6月に、JRの発車チャイムが耳障りであると書いたブログがあるので、現在のものに変わったのはつい2年ほど前のことではないだろうか。このブログには、都会と同じメロディがのどかな青森でも流れていたのには呆れたと書かれている。
by rakuseijin653
| 2012-10-04 10:10
| 雑記
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