2012年 11月 25日
三島由紀夫事件 |
三島由紀夫の「潮騒」を読んだのは、高校3年の時、昭和29年のことである。当時の高校生は皆そうだったのではないかと思うが、それまで小説と言えば、江戸川乱歩の探偵小説などは別として、純文学では夏目漱石や森鴎外といった戦前の文豪といわれる作家のものしか読んでいなかった。
だから、三島の小説はある意味、新鮮であった。少年、少女の純心な恋を書いたこの作品から、後の三島の行動など想像もつかないことであった。その後三島作品の評価が高まっていくのだが、読んだのは「仮面の告白」や「金閣寺」、「鹿鳴館」など僅かで三島文学に傾倒していったわけではない。三島の奇行ぶりや変人ぶりにだんだん距離を感じるようになっていった。「潮騒」から16年後の昭和45年11月25日に「あの事件」が起きた。
三島の死とは一体なんであったのだろう。市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、「自衛隊は憲法改正のためにクーデターを起こせ」と檄を飛ばし、天皇陛下万歳と叫んで自害した三島は、自分の美学を貫徹したということなのだろう。しかし、彼にとっては残念ながら、自衛隊員がそれに呼応することはなかったし、三島の行動を評価する一般人は殆どいない。彼の意思を継ぐ者が現れたかという点では、何の効果も影響もなかった。三島の行動は自衛隊にも世の中にも何の変化ももたらさなかったのである。
当時防衛庁長官であった中曽根康弘氏はこの時のことを後(96年)に、日本経済新聞の「私の履歴書」で次のように述べている。
「私は幹部を集めて『(三島の行動は)常軌を逸した行動であり、民主的秩序を破壊する行為は徹底的に糾弾しなけれはならない』との談話を発表、各幕僚長を通じて自衛隊員の心構えを下達した。私が三顧の礼で迎えた猪木正道防衛大学校長にも、三島の檄(げき)に反論する所信表明をしてもらった。
矢継ぎ早の対応は昭和十一年の二・二六事件の際、川島義之陸相が当初、あいまいな態度をとったため、陸軍内に動揺をきたし、事件の僻地を遅らせる結果になったことを思い起こしたからである」。
2016年2月27日追記(2月26日付朝日新聞夕刊「新聞と九条」より)
<三島由紀夫の『檄』>
「おまえら聞け。おれは自衛隊が立ち上がるのを四年間待ったんだ。諸君は武士だろう。ならば自分を否定する憲法をなぜ守るのだ。なぜペコペコするのか。
これがある限り諸君は永久に救われないんだぞ。どうしてそれに気がつかんのだ。」
話し方は、どなり声に変わった。
「訳が分からんぞ」隊員の間からヤジが飛ぶと、キッとその方向を見すえるようにして「オレのいうことがわからんのか」「静聴しろ」とどなり返す。
.........「わたしの側に立つ者はだれもいないのか」.......それが最後の叫びだった。
(1970年11月25日付朝日新聞夕刊)
エピソード:三島の死の翌年、昭和46年の3月頃だったと思う。あるグループの昼食会が新橋烏森の料亭であった。一同座席に着いたら、床の間を背にした席に座った人に女将が、「そこは三島由紀夫が自害の前夜、最後の晩餐をした時に座った場所です」と言う。それを聞いて、「その夜」の情景を想像して生臭い空気が部屋に漂ったような感じをもったものである。
だから、三島の小説はある意味、新鮮であった。少年、少女の純心な恋を書いたこの作品から、後の三島の行動など想像もつかないことであった。その後三島作品の評価が高まっていくのだが、読んだのは「仮面の告白」や「金閣寺」、「鹿鳴館」など僅かで三島文学に傾倒していったわけではない。三島の奇行ぶりや変人ぶりにだんだん距離を感じるようになっていった。「潮騒」から16年後の昭和45年11月25日に「あの事件」が起きた。
三島の死とは一体なんであったのだろう。市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、「自衛隊は憲法改正のためにクーデターを起こせ」と檄を飛ばし、天皇陛下万歳と叫んで自害した三島は、自分の美学を貫徹したということなのだろう。しかし、彼にとっては残念ながら、自衛隊員がそれに呼応することはなかったし、三島の行動を評価する一般人は殆どいない。彼の意思を継ぐ者が現れたかという点では、何の効果も影響もなかった。三島の行動は自衛隊にも世の中にも何の変化ももたらさなかったのである。
当時防衛庁長官であった中曽根康弘氏はこの時のことを後(96年)に、日本経済新聞の「私の履歴書」で次のように述べている。
「私は幹部を集めて『(三島の行動は)常軌を逸した行動であり、民主的秩序を破壊する行為は徹底的に糾弾しなけれはならない』との談話を発表、各幕僚長を通じて自衛隊員の心構えを下達した。私が三顧の礼で迎えた猪木正道防衛大学校長にも、三島の檄(げき)に反論する所信表明をしてもらった。
矢継ぎ早の対応は昭和十一年の二・二六事件の際、川島義之陸相が当初、あいまいな態度をとったため、陸軍内に動揺をきたし、事件の僻地を遅らせる結果になったことを思い起こしたからである」。
2016年2月27日追記(2月26日付朝日新聞夕刊「新聞と九条」より)
<三島由紀夫の『檄』>
「おまえら聞け。おれは自衛隊が立ち上がるのを四年間待ったんだ。諸君は武士だろう。ならば自分を否定する憲法をなぜ守るのだ。なぜペコペコするのか。
これがある限り諸君は永久に救われないんだぞ。どうしてそれに気がつかんのだ。」
話し方は、どなり声に変わった。
「訳が分からんぞ」隊員の間からヤジが飛ぶと、キッとその方向を見すえるようにして「オレのいうことがわからんのか」「静聴しろ」とどなり返す。
.........「わたしの側に立つ者はだれもいないのか」.......それが最後の叫びだった。
(1970年11月25日付朝日新聞夕刊)
エピソード:三島の死の翌年、昭和46年の3月頃だったと思う。あるグループの昼食会が新橋烏森の料亭であった。一同座席に着いたら、床の間を背にした席に座った人に女将が、「そこは三島由紀夫が自害の前夜、最後の晩餐をした時に座った場所です」と言う。それを聞いて、「その夜」の情景を想像して生臭い空気が部屋に漂ったような感じをもったものである。
40年以上前のこととて、その料亭の名前を憶えているはずはない。ところが世はネット時代。「三島事件 新橋料亭」で検索するとちゃんと出ている。名前は、「新橋末げん」である。明治42年創業で原敬や5代目菊五郎が通った老舗とあるが、昼は、1000円で食事ができる。
残念ながら、昔の料亭の佇まいは今はなく、自前のビルの中に転じている。
残念ながら、昔の料亭の佇まいは今はなく、自前のビルの中に転じている。
by rakuseijin653
| 2012-11-25 09:00
| 思想
|
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