2013年 01月 10日
「偶然」について |
暮れの28日に歌手岡本敦郎が亡くなったと、7日、テレビが報じた。のびやかな歌声で戦後復興期の日本人の心を明るくし元気づけた歌手である。何年か前まで大晦日には、テレビ東京の「にっぽんの歌」に出ていたので、最近どうしているのかなと思っていたところであった。
普段は頭にないのに、その人のことを思い浮かべたその時に訃報のニュースに接することのこの偶然。
「偶然」とは、「起こること、あるいは起こったことについて、科学的あるいは論理的に必然性が示されないような事象と定義したい」(「偶然とは何か」竹内啓著・岩波新書)
今までに様々な偶然に出会ってきた。以前のブログ(20012年10月13日「鎮海のこと」)に、韓国の鎮海を55年ぶりに姉たちと訪ねたことを書いたが、実はその前年にも一人で行っている。その直前に熊本に住む姉から、「朝日新聞の書評欄にこういう本の紹介が出ている」と電話があった。その本が先のブログで揚げている「鎮海の桜・ある日韓歴史の旅」である。その時点で姉には、鎮海に行くことは一言も話していない。それなのに、まるでそれを知っていたかのようなタイミングで電話してきたのだ。早速本屋で買い求めたが、この偶然に驚いた。
そして2回目に姉たちと行った時は、携行したこの本の中で著者が紹介している鎮海の郷土史家黄正徳氏に遭遇するという偶然があった。豊臣秀吉の軍(小西行長)と戦った(文禄・慶長の役)、朝鮮の英雄李舜臣が率いた水軍の亀甲船(復元)が一般に公開されており、その中で日本語を話すグループがあるので話しかけたら、そこに案内役の黄氏がいたのだ。5分も違えばそういう偶然は起きていない。
その他にも色々経験した「偶然」のことを5話、大学のクラブのOB誌に「ウソのような偶然の話」と題して投稿したことがある。ところがここでまた偶然が起こる。原稿を送った数日後図書館に行き、何気なく書架を見たら、雑誌「新潮」3月号(2005年)の表紙に「偶然の旅人・村上春樹」とあるのが目に入った。本当のところ普段こういう文芸雑誌は読んでおらず、この書架の前を通っても右側の総合雑誌には目が行っても、反対側の左端に視線がいくことはないのに、この日に限って何となく目を向けたのが不思議である。そしてまた驚いたことに、その中で村上が書いていることが、自分が「偶然」について思っていることとほぼ同じなのである。
(続く)
普段は頭にないのに、その人のことを思い浮かべたその時に訃報のニュースに接することのこの偶然。
「偶然」とは、「起こること、あるいは起こったことについて、科学的あるいは論理的に必然性が示されないような事象と定義したい」(「偶然とは何か」竹内啓著・岩波新書)
今までに様々な偶然に出会ってきた。以前のブログ(20012年10月13日「鎮海のこと」)に、韓国の鎮海を55年ぶりに姉たちと訪ねたことを書いたが、実はその前年にも一人で行っている。その直前に熊本に住む姉から、「朝日新聞の書評欄にこういう本の紹介が出ている」と電話があった。その本が先のブログで揚げている「鎮海の桜・ある日韓歴史の旅」である。その時点で姉には、鎮海に行くことは一言も話していない。それなのに、まるでそれを知っていたかのようなタイミングで電話してきたのだ。早速本屋で買い求めたが、この偶然に驚いた。
そして2回目に姉たちと行った時は、携行したこの本の中で著者が紹介している鎮海の郷土史家黄正徳氏に遭遇するという偶然があった。豊臣秀吉の軍(小西行長)と戦った(文禄・慶長の役)、朝鮮の英雄李舜臣が率いた水軍の亀甲船(復元)が一般に公開されており、その中で日本語を話すグループがあるので話しかけたら、そこに案内役の黄氏がいたのだ。5分も違えばそういう偶然は起きていない。
その他にも色々経験した「偶然」のことを5話、大学のクラブのOB誌に「ウソのような偶然の話」と題して投稿したことがある。ところがここでまた偶然が起こる。原稿を送った数日後図書館に行き、何気なく書架を見たら、雑誌「新潮」3月号(2005年)の表紙に「偶然の旅人・村上春樹」とあるのが目に入った。本当のところ普段こういう文芸雑誌は読んでおらず、この書架の前を通っても右側の総合雑誌には目が行っても、反対側の左端に視線がいくことはないのに、この日に限って何となく目を向けたのが不思議である。そしてまた驚いたことに、その中で村上が書いていることが、自分が「偶然」について思っていることとほぼ同じなのである。
(続く)
by rakuseijin653
| 2013-01-10 13:29
| 人生
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