2013年 10月 21日
無言館と窪島誠一郎 |
無言館を訪れたのは、1999年である。NHKのテレビ番組を観てのことであった。
それは、窪島誠一郎氏が戦没画学生の遺族を訪ね、彼らが遺した絵を集める旅を追った番組であった。1997年、それらの絵を一堂に展示するため、窪島氏は長野県上田市に美術館を建てた。名前は無言館とつけられた。それ以来、しばしばメディアで紹介されることとなり、交通不便な所にもかかわらず、今は多くの人が訪れる場所である。
日本経済新聞夕刊「人間発見」(9月24日―27日)で窪島氏が語っているところによれば、開館から16年で来館者は135万人に上るという。戦争で亡くなった画学生は500人。窪島氏は全国を回り、108人、約700点の絵を収集した。
氏が戦没画学生の絵を集めるきっかけとなったのは、画家の野見山暁治氏との出会いである。先の戦争で死んで行った美術学校の同期生への思いを切々と語り、絵の存続を心配する野見山氏の話に心を動かされた窪島氏は、野見山氏と二人で戦没画学生の絵を集める行脚に出かけ、後には一人で全国の旅を続けた。
野見山氏は、「画学生の絵は決して上手とは言えない」と言い、窪島氏も一点、一点の絵は、「いわば学生の習作だから絵が弱い」と言っている。しかし、それらを一堂に並べると、そこにはひたむきな純粋さと、濃縮された時間があり、「おれはもっと絵を描きたいという叫びを感じる」と言うのだ。
専門的な審美眼はないが、遺作の前に立つと、「もっと絵を描きたかった」という彼らの、“無言の叫び”が聴こえるようである。国家の間違った戦争により、絵筆を銃剣に変えさせられて戦場に散った彼らの無念を思うと、感涙を禁じ得ない。彼らの絵は、60数年の年月を経てなお、絵の具の香りさえ漂わせる瑞々しさを観る者に感じさせるのである。
10月13日の朝日新聞に、秋雨の神宮外苑競技場で行われた、学徒動員で戦場に向かう学生の壮行会の写真と出陣学徒としてその場所にいた作曲家大仲恩氏の話が出ている。この無言館に展示されている絵を遺した画学生たちも、この隊列の中にいたのだろうか。それは、70年前の今日、昭和18年10月21日のことであった。この時の、東条英機が壇上から学生に向かって訓示する画面を見るたびに、憤りを覚える。
*大仲恩氏は、「犬のおまわりさん」、「サッちゃん」の作曲で知られる。
無言館(上田市ウエブサイトより)
出陣学徒壮行会(神宮外苑競技場)<10月21日・NHK「ニュースウオッチ9」>より
訓示する東条英機首相(私はここに衷心よりその門出をお祝い申し上げる次第である。(略)一切を大君に捧げ奉るは皇国に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの道である)
離陸する特別攻撃機・片道の燃料と爆弾を積み乗員ごと敵艦に体当たり、自爆して行った
それは、窪島誠一郎氏が戦没画学生の遺族を訪ね、彼らが遺した絵を集める旅を追った番組であった。1997年、それらの絵を一堂に展示するため、窪島氏は長野県上田市に美術館を建てた。名前は無言館とつけられた。それ以来、しばしばメディアで紹介されることとなり、交通不便な所にもかかわらず、今は多くの人が訪れる場所である。
日本経済新聞夕刊「人間発見」(9月24日―27日)で窪島氏が語っているところによれば、開館から16年で来館者は135万人に上るという。戦争で亡くなった画学生は500人。窪島氏は全国を回り、108人、約700点の絵を収集した。
氏が戦没画学生の絵を集めるきっかけとなったのは、画家の野見山暁治氏との出会いである。先の戦争で死んで行った美術学校の同期生への思いを切々と語り、絵の存続を心配する野見山氏の話に心を動かされた窪島氏は、野見山氏と二人で戦没画学生の絵を集める行脚に出かけ、後には一人で全国の旅を続けた。
野見山氏は、「画学生の絵は決して上手とは言えない」と言い、窪島氏も一点、一点の絵は、「いわば学生の習作だから絵が弱い」と言っている。しかし、それらを一堂に並べると、そこにはひたむきな純粋さと、濃縮された時間があり、「おれはもっと絵を描きたいという叫びを感じる」と言うのだ。
専門的な審美眼はないが、遺作の前に立つと、「もっと絵を描きたかった」という彼らの、“無言の叫び”が聴こえるようである。国家の間違った戦争により、絵筆を銃剣に変えさせられて戦場に散った彼らの無念を思うと、感涙を禁じ得ない。彼らの絵は、60数年の年月を経てなお、絵の具の香りさえ漂わせる瑞々しさを観る者に感じさせるのである。
10月13日の朝日新聞に、秋雨の神宮外苑競技場で行われた、学徒動員で戦場に向かう学生の壮行会の写真と出陣学徒としてその場所にいた作曲家大仲恩氏の話が出ている。この無言館に展示されている絵を遺した画学生たちも、この隊列の中にいたのだろうか。それは、70年前の今日、昭和18年10月21日のことであった。この時の、東条英機が壇上から学生に向かって訓示する画面を見るたびに、憤りを覚える。
*大仲恩氏は、「犬のおまわりさん」、「サッちゃん」の作曲で知られる。
無言館(上田市ウエブサイトより)
出陣学徒壮行会(神宮外苑競技場)<10月21日・NHK「ニュースウオッチ9」>より
訓示する東条英機首相(私はここに衷心よりその門出をお祝い申し上げる次第である。(略)一切を大君に捧げ奉るは皇国に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの道である)
離陸する特別攻撃機・片道の燃料と爆弾を積み乗員ごと敵艦に体当たり、自爆して行った
by rakuseijin653
| 2013-10-21 08:00
| 人生
|
Comments(3)
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rakuseijin653 at 2015-09-25 16:35
藤田喬平(ガラス造形家)「仲のいい友達に山形出身の芳賀準録という男がいた。今年五月、長野県に旅したとき、無言館に寄った。僕が知っているだけでも相当の人数が戦地に行っているからひょっとしてと見て回っていたら、彼の絵があった。初めて見る絵だったが、彼の絵と分かった。一瞬のうちに六十年近い昔に戻り、学生時代の記憶がよみがえった。入隊する前、山形は食べ物が豊富だからと温海温泉に招かれ甘酸っぱいりんごを腹いっぱい食べさせてもらったことがあった。もう一人の同級生の絵もあった。桑原喜八郎という日本画をやっていた男で、ビルマで戦死した。知っている人の絵を見るのは、やはりショックだった」『私の履歴書』日本経済新聞2000年12月7日
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rakuseijin653 at 2018-01-09 10:53
野見山暁治「自分の何倍もの才能ある仲間が、たくさん戦死してしまった」「あの狂気の時代をかいくぐった人間として、ああいう時代が待ち伏せしている、いつかやられるという不安が抜けないできた」「下手だと感じていた画学生の絵も最近、良く見えるようになった。死ぬまでの執行猶予を与えられ、ひたむきに生き、絵を描いた時代が伝わってくる。大きな流れにのみ込まれ、異論が封じられ、社会が一気に変わってしまう。それは過去の話ではない」
(朝日新聞・2018年1月8日)
(朝日新聞・2018年1月8日)
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rakuseijin653 at 2019-02-10 11:52
窪島誠一郎「私の営む戦没画学生慰霊美術館『無言館』の近くに、金子兜太氏揮毫による『俳句弾圧不忘の碑』が建っている。戦争中に反戦を詠んだ多くの俳人が、治安維持法によって検挙、投獄された『新興俳句弾圧事件』に、氏が長く心をよせていたことは知っていた。その『不忘の碑』序幕の日に、私はすぐかたわらに『檻の俳句館』という小施設をつくった。弾圧俳人の作品を鉄格子を模した『おり』で囲むという少々変わった趣向の展示館だが、ここに入ると句の前にいる自分のほうが檻に閉じ込められているようなふしぎな錯覚が生じる。何やらあの時代の匂いがしてくる昨今、お前の手でこの檻が破れるか。兜太ロスから未だ立ち直れぬ人への、無言の問いかけである」
2019年2月2日・朝日新聞
2019年2月2日・朝日新聞