2014年 10月 08日
白虹事件と現代の言論封殺 |
今からおよそ100年前の1918年、政治権力による朝日新聞に対する言論封殺があったが(白虹事件)、言論自由時代の今、政治権力の代わりに「民主導」の言論封殺が起きようとしている。安倍首相のブレーンである桜井よし子ら右翼勢力が、朝日新聞の廃刊を求めているのだ。ある意味では戦前より恐ろしいことである。
朝日新聞は、慰安婦問題報道の「吉田証言」と東電福島第一原子力発電所の事故後の「吉田調書」の報道内容に一部誤りがあったことを認め謝罪したことから、特に慰安婦問題報道で八方から激しい攻撃を受けている。それはもはや言論による批判とか非難を逸脱したもので、言論の封殺を狙ったものである。海外メディアの中にはこれに、言論テロという言葉を使っているものさえある。ジャーナリズムの劣化、極まれりである
読売新聞と産経新聞は、自らの過去の幾たびかの誤報には口を噤んだまま謝罪などしていないことを顧みず、ここぞとばかり朝日攻撃を展開してチラシや小冊子まで配って読者獲得に走った。右翼論壇誌だけでなく良質の文学や言論を世に出してきた伝統ある文芸春秋社や新潮社までも、自社が発行する週刊誌の見出しに、朝日新聞に対する、「売国奴」、「国賊」という見るにも、聞くにも堪えない言葉を投げつけている。週刊文春にしても週刊新潮にしても、自身の度重なる誤報がどれだけ裁判ざたになったか。敗訴すると彼らは、「当社の主張が認められなかったことは遺憾です」という常套句を繰り返すだけで謝罪したことはほとんどない。
これらの新聞、雑誌は朝日の誤報を「以て他山の石」とするのではなく、報道内容の本質を論じることをせず、「一事を以て万事を否定」し朝日新聞の存在そのものに狂気のごとく圧力をかけている。「民主導」と表現したのは、それに政権が呼応しているからである。 そこにあるのは、権力を批判するというジャーナリストの基本を忘却した者の、権力と一体になった一メディアの言論に対する抑圧である。
上に述べた現在の”言論封殺”とはそのきっかけとなる内容は異なるが、歴史書に「白虹事件」として記録されている言論封殺は下記のように行われた。「日本の歴史・大正デモクラシー」(今井清一著・中央公論社)より。
<(1918年の米騒動の報道で)寺内内閣の無策を批判し続けた新聞の中でも攻撃の先陣に立った大阪朝日新聞に対して、寺内内閣は退陣を前にして弾圧の刃をつきつけた。
政府が目につけたのは、8月25日の関西記者大会を報じたつぎの一文であった。
「金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判に近づいているのではないだろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人は呟いた不吉の兆が、黙々として肉叉(にくさ)を動かしている人々の頭に雷の様に閃く」
うの眼たかの目の警察はただちに内務省と連絡して、この夕刊を発売禁止とした。「白虹日を貫く」とは国に兵乱がおこるしるしである。しかし日とは天子を意味するという難癖をつけられ、9月9日には新聞法にいう皇室の尊厳冒涜、政体変改、朝憲紊乱事項記載のかどで、『大阪朝日』は起訴された。
この事件の判決は12月4日にくだり、新聞紙法の安寧秩序紊乱の罪にあたるとして、編集人兼発行人と原稿担当者がそれぞれ禁錮2月の刑が宣告された。検事の要求した発行停止は認められなかった。
この判決の3日前に大阪朝日新聞は、「本社の本領宣言」と題する宣言をのせていた。「常に皇室を尊崇して国民忠愛の精神を鼓舞し言を立て事を議するは不偏不党公平穏健の八字を以て信条となし」 と説き起こして、この事件にたいする悔悛の情をしめした。司法当局は、いわばこのわび証文を認めて、検事訴訟を取りやめようとしたが、法相を兼ねる原敬は、たんに紙上の告白のみだけでは不十分だとして上野新社長を呼び出して真意をたしかめ、さる1日に発表した精神をあくまで貫徹するとの陳述を聞いたうえで訴訟を取りやめた。「平民宰相」原は、急進的な言論をおさえる点では、寺内内閣の方針をそのままうけついでいたのである。不吉な前兆であった。>
(強調は引用者)
白虹事件の前の二度の関西記者大会で、新聞各社は寺内内閣の失政を弾劾して言論自由擁護を宣言、失政の責任を負い速やかに処決すべしと決議していたが、この時(白虹事件)、記者会が政府に抗して朝日を援護することはなく、朝日は孤立した。以後、言論統制は益々強化されメディアは権力に迎合していった結果、昭和に入って軍の暴走を止めるものはなくなり、敗戦の悲劇を迎えるのである。 (続く)
*二度目の関西記者大会には東北を除く各地方代表が参加した事実上の全国大会であった
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朝日新聞は、慰安婦問題報道の「吉田証言」と東電福島第一原子力発電所の事故後の「吉田調書」の報道内容に一部誤りがあったことを認め謝罪したことから、特に慰安婦問題報道で八方から激しい攻撃を受けている。それはもはや言論による批判とか非難を逸脱したもので、言論の封殺を狙ったものである。海外メディアの中にはこれに、言論テロという言葉を使っているものさえある。ジャーナリズムの劣化、極まれりである
読売新聞と産経新聞は、自らの過去の幾たびかの誤報には口を噤んだまま謝罪などしていないことを顧みず、ここぞとばかり朝日攻撃を展開してチラシや小冊子まで配って読者獲得に走った。右翼論壇誌だけでなく良質の文学や言論を世に出してきた伝統ある文芸春秋社や新潮社までも、自社が発行する週刊誌の見出しに、朝日新聞に対する、「売国奴」、「国賊」という見るにも、聞くにも堪えない言葉を投げつけている。週刊文春にしても週刊新潮にしても、自身の度重なる誤報がどれだけ裁判ざたになったか。敗訴すると彼らは、「当社の主張が認められなかったことは遺憾です」という常套句を繰り返すだけで謝罪したことはほとんどない。
これらの新聞、雑誌は朝日の誤報を「以て他山の石」とするのではなく、報道内容の本質を論じることをせず、「一事を以て万事を否定」し朝日新聞の存在そのものに狂気のごとく圧力をかけている。「民主導」と表現したのは、それに政権が呼応しているからである。 そこにあるのは、権力を批判するというジャーナリストの基本を忘却した者の、権力と一体になった一メディアの言論に対する抑圧である。
上に述べた現在の”言論封殺”とはそのきっかけとなる内容は異なるが、歴史書に「白虹事件」として記録されている言論封殺は下記のように行われた。「日本の歴史・大正デモクラシー」(今井清一著・中央公論社)より。
<(1918年の米騒動の報道で)寺内内閣の無策を批判し続けた新聞の中でも攻撃の先陣に立った大阪朝日新聞に対して、寺内内閣は退陣を前にして弾圧の刃をつきつけた。
政府が目につけたのは、8月25日の関西記者大会を報じたつぎの一文であった。
「金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判に近づいているのではないだろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人は呟いた不吉の兆が、黙々として肉叉(にくさ)を動かしている人々の頭に雷の様に閃く」
うの眼たかの目の警察はただちに内務省と連絡して、この夕刊を発売禁止とした。「白虹日を貫く」とは国に兵乱がおこるしるしである。しかし日とは天子を意味するという難癖をつけられ、9月9日には新聞法にいう皇室の尊厳冒涜、政体変改、朝憲紊乱事項記載のかどで、『大阪朝日』は起訴された。
この事件の判決は12月4日にくだり、新聞紙法の安寧秩序紊乱の罪にあたるとして、編集人兼発行人と原稿担当者がそれぞれ禁錮2月の刑が宣告された。検事の要求した発行停止は認められなかった。
この判決の3日前に大阪朝日新聞は、「本社の本領宣言」と題する宣言をのせていた。「常に皇室を尊崇して国民忠愛の精神を鼓舞し言を立て事を議するは不偏不党公平穏健の八字を以て信条となし」 と説き起こして、この事件にたいする悔悛の情をしめした。司法当局は、いわばこのわび証文を認めて、検事訴訟を取りやめようとしたが、法相を兼ねる原敬は、たんに紙上の告白のみだけでは不十分だとして上野新社長を呼び出して真意をたしかめ、さる1日に発表した精神をあくまで貫徹するとの陳述を聞いたうえで訴訟を取りやめた。「平民宰相」原は、急進的な言論をおさえる点では、寺内内閣の方針をそのままうけついでいたのである。不吉な前兆であった。>
(強調は引用者)
白虹事件の前の二度の関西記者大会で、新聞各社は寺内内閣の失政を弾劾して言論自由擁護を宣言、失政の責任を負い速やかに処決すべしと決議していたが、この時(白虹事件)、記者会が政府に抗して朝日を援護することはなく、朝日は孤立した。以後、言論統制は益々強化されメディアは権力に迎合していった結果、昭和に入って軍の暴走を止めるものはなくなり、敗戦の悲劇を迎えるのである。 (続く)
*二度目の関西記者大会には東北を除く各地方代表が参加した事実上の全国大会であった
by rakuseijin653
| 2014-10-08 08:00
| 思想
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