2014年 10月 15日
言論封殺(2) |
寺内首相は米騒動の混乱で8月31日(1918年)山形有朋に辞意を告げ、9月27日原敬が組閣を命じられた。その最中に右翼団体が朝日新聞の村山社長を襲撃するという事件が起きた。政治権力の言論弾圧に呼応した右翼団体の暴力である。これらにより村山社長は辞任に追い込まれた。この暴挙に立ちはだかったのが吉野作造(東大教授)である。
前稿に続き、「日本の歴史・大正デモクラシー」(今井清一著・中央公論社)から
<原内閣の組閣中の9月28日、黒竜会の池田弘壽らが、筆禍事件で攻撃を受けていた大阪朝日新聞社長の村山竜平を白昼中之島公園で襲撃し、これを楼燈にしばりつけて「国賊村山竜平を天に代わって誅す」という紙旗を立てた。浪人会では勢いをかって、頭山満、内田良平、佐々木安五郎らの首領株を加えて「非国民『大阪朝日新聞』膺懲、国体擁護運動」にのりだした。大阪朝日の公判廷では、検事は発行禁止を要求しておどした。10月の後半には村山社長がやめて上野理一とかわった。
浪人会一派の朝日襲撃事件は、デモクラシーの潮流にたいする反撃であった。かれらは「国体擁護」を錦の御旗に、民本主義者たちをおどして歩いた。これに対して吉野作造は、「中央公論」の11月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」を書いて、浪人会一派の暴力を非難し、あわせてふだん神経過敏な警察官憲の取り締まりがあまりに寛大なことを批判した。浪人会が吉野のところにおしかけると、吉野は立会演説で是非を明らかにしようと提案し、浪人会も大衆演説会を望んだ。
吉野対浪人会の演説会は、11月23日の夜に開かれた。会場の神田南明倶楽部は、吉野を守れとおしよせた東京帝大、早大の弁論部を中心とする学生、友愛会関係の労働者、神田商店街の店員などでいっぱいとなり、群衆は会場の外にあふれた。浪人会側は4人の弁士を立てて圧倒しようとしたが、吉野は「思想に当たるに暴力を以てすることは、それ自体においてすでに暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするものである」と浪人会の言動をするどく批判した。浪人会の圧力にびくとも屈しない吉野の弁舌に、聴衆は熱狂的な声援をおくった。民衆の力が逆に浪人会に威圧を与えたのである。吉野の日記には、「十分論駁しつくして相手を完膚なからしめし程なり。十時過ぎ凱旋す、屋外同情者千数百、歩行自由ならず。警吏のたすけにより辛うじて電車に飛びのる。外套と帽子をなくす」とある。>
言うなればこの時、吉野作造一人で右翼団体の暴圧を退けたのである。選挙権が一部の納税者に限定され(人口比5.5%、女性には選挙権がない)、一般国民の政治への参加意識が低かった時代には吉野のような傑出したリーダーが必要であったとも言える。現代は選挙権は平等に付与され(人口比81.8%)、メディア形態が多様化し、誰でもSNSによって言論の場に参加できる時代である。一人の傑出したリーダーを必要とした時代とは社会構造が違う。それでは現代の方が非民主的な言行に対する言論の力は強くなっているのだろうか。
様々なメディアや大勢の市民それぞれが自分の領域の中で相手を非難しているだけで、直接対決して相手を論破するという場面はみられない。「積極的歴史修正主義者」たちが大手を振って歩いている現状をみると、かれらに対峙する言論陣には時流に抗した迫力あるオピニオンリーダーたるべきものの存在感がないように思う。
*北星学園大学は、同大学に勤務する「慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者を辞めさせなければ学生に危害を与える」という脅迫文を受け、9月30日これを退ける以下の学長声明を出した。一方、帝塚山学院大学では、同様の脅迫文を受けて別の元朝日新聞記者(教授)は退職した。
[北星学園大学の学長声明]
前稿に続き、「日本の歴史・大正デモクラシー」(今井清一著・中央公論社)から
<原内閣の組閣中の9月28日、黒竜会の池田弘壽らが、筆禍事件で攻撃を受けていた大阪朝日新聞社長の村山竜平を白昼中之島公園で襲撃し、これを楼燈にしばりつけて「国賊村山竜平を天に代わって誅す」という紙旗を立てた。浪人会では勢いをかって、頭山満、内田良平、佐々木安五郎らの首領株を加えて「非国民『大阪朝日新聞』膺懲、国体擁護運動」にのりだした。大阪朝日の公判廷では、検事は発行禁止を要求しておどした。10月の後半には村山社長がやめて上野理一とかわった。
浪人会一派の朝日襲撃事件は、デモクラシーの潮流にたいする反撃であった。かれらは「国体擁護」を錦の御旗に、民本主義者たちをおどして歩いた。これに対して吉野作造は、「中央公論」の11月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」を書いて、浪人会一派の暴力を非難し、あわせてふだん神経過敏な警察官憲の取り締まりがあまりに寛大なことを批判した。浪人会が吉野のところにおしかけると、吉野は立会演説で是非を明らかにしようと提案し、浪人会も大衆演説会を望んだ。
吉野対浪人会の演説会は、11月23日の夜に開かれた。会場の神田南明倶楽部は、吉野を守れとおしよせた東京帝大、早大の弁論部を中心とする学生、友愛会関係の労働者、神田商店街の店員などでいっぱいとなり、群衆は会場の外にあふれた。浪人会側は4人の弁士を立てて圧倒しようとしたが、吉野は「思想に当たるに暴力を以てすることは、それ自体においてすでに暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするものである」と浪人会の言動をするどく批判した。浪人会の圧力にびくとも屈しない吉野の弁舌に、聴衆は熱狂的な声援をおくった。民衆の力が逆に浪人会に威圧を与えたのである。吉野の日記には、「十分論駁しつくして相手を完膚なからしめし程なり。十時過ぎ凱旋す、屋外同情者千数百、歩行自由ならず。警吏のたすけにより辛うじて電車に飛びのる。外套と帽子をなくす」とある。>
言うなればこの時、吉野作造一人で右翼団体の暴圧を退けたのである。選挙権が一部の納税者に限定され(人口比5.5%、女性には選挙権がない)、一般国民の政治への参加意識が低かった時代には吉野のような傑出したリーダーが必要であったとも言える。現代は選挙権は平等に付与され(人口比81.8%)、メディア形態が多様化し、誰でもSNSによって言論の場に参加できる時代である。一人の傑出したリーダーを必要とした時代とは社会構造が違う。それでは現代の方が非民主的な言行に対する言論の力は強くなっているのだろうか。
様々なメディアや大勢の市民それぞれが自分の領域の中で相手を非難しているだけで、直接対決して相手を論破するという場面はみられない。「積極的歴史修正主義者」たちが大手を振って歩いている現状をみると、かれらに対峙する言論陣には時流に抗した迫力あるオピニオンリーダーたるべきものの存在感がないように思う。
*北星学園大学は、同大学に勤務する「慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者を辞めさせなければ学生に危害を与える」という脅迫文を受け、9月30日これを退ける以下の学長声明を出した。一方、帝塚山学院大学では、同様の脅迫文を受けて別の元朝日新聞記者(教授)は退職した。
[北星学園大学の学長声明]
by rakuseijin653
| 2014-10-15 08:00
| 思想
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