2014年 11月 29日
塙 保己一記念館 |
塙保己一(1746-1821)については、高校の教科書で盲目の国学者であることを学んだだけで、以後深く知識を重ねたわけではない。ただ埼玉県に移り住んで、保己一が現在の本庄市児玉町の出であり、その記念館があるというので一度は訪ねてみたいと思っていた。塙保己一記念館は、JR高崎線本庄駅から八高線児玉駅とを結ぶ路線バスで15分ほどのところにある。戦国時代に築城された雉岡城々郭の一角にある記念館のこじんまりした館内には、「群書類従」の版木の一部や、出版にあたって保己一がその費用をたびたび借金した際の「証文」などが展示されている。
塙保己一が失明したのは7歳の時である。胃腸病が原因であった。14歳で江戸へ出て雨富須賀一検校の門人となった。「検校」とは、室町時代に定着した盲官(盲人の役職)の最高位をいう。保己一はそこで鍼やあんまを修行するが身につかず、学問の方に情熱が向かっていった。その才能を見抜いた雨富検校の支援により国学、和歌、儒学、漢学の道へ進んでいったのである。そして48歳のとき「和学講談所」を創立、後の「群書類従」の編纂につながる。
「群書類従」は、古書の散逸を危惧した保己一が、古代から江戸時代初期までの史書や文学作品、1273種類を収集、編集したしたもの。保己一没後四男の忠宝(ただとみ・1808-1862)や弟子によって編纂が続けられたが、忠宝は伊藤博文によって暗殺されているのだ。明治の元勲伊藤博文にそのような過去があるとは知らなかった。忠宝が老中安藤信正の令で、寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査していることが、孝明天皇を廃位するための「廃帝の典故」について調査していると誤解され、尊王の志士伊藤が山尾庸三とともにテロに及んだのだ。山尾は後に明治政府の法制局長官を務めた。
その文献が、日本社会事業大学の木下知威氏(工学博士)のウエブサイト「伊藤博文と山尾庸三が塙忠宝を斬殺したこと」に示されている。木下氏は、「近代日本の盲唖学校を対象に、『建築の使われ方の変遷』を研究している」少壮の学徒である。以下、引用。
<塙の息子・塙忠宝は伊藤博文と山尾庸三によって暗殺されたという渋沢栄一の述懐があるそうです。よく知られるように、伊藤は生前から史料をよく残していました。これを活用した伝記、春畝公追頌會編『伊藤博文傳』を取り上げます。これは伝記のなかでも一次史料を多く使っている詳細なものです。ここから塙忠宝に関するくだりを読んでみましょう。>
第四章 勤王攘夷(下)
曩(さき)に安藤信正を坂下門外に要撃せし激徒の斬奸状に、廃帝の故事を取調べたる一箇条ありしが、その取調の任に当りし者は、国学者塙次郎(忠宝)なることが判明した。ここに於いて、公(伊藤)は、先づ山尾庸三と共に国学入門と称し、塙を麹町三番町の住宅に訪ね、その面貌を見定め置き、文久二年十二月二十一日の夜、塙が他所よりの帰宅を待受け、その住宅附近に於いて国賊と呼びかけ、これを斬殺した。
(『伊藤博文傳』上巻、73頁、昭和15年、旧字をあらため、括弧は補足したもの)
<これを読むと塙保己一の息子を伊藤と山尾が暗殺したのは確かなことがわかります。つまり、日本において盲唖学校の必要性を説き、なおかつ訓盲院とも深く結ばれることになる山尾としては、「盲人の息子を殺したことがある」過去を有している人物になります。わたしはこのことを皮肉なことだと言いたいのではありません。
そうではなく、筑波大学附属の盲学校・聾学校において語られる山尾はあくまでもその一面にすぎないということであり、かつてそのようなこともあったということを知っておくべきだということです。
塙保己一はそんな山尾庸三になんと声をかけるでしょうか>
引用終り
山尾庸三は後に(1880年)楽善訓盲院を創立しており、それは保己一の息子を殺してしまったことの贖罪と考えても自然に思えるが、木下氏よれば、そのように断定する資料等はないとのことである。
*なお、保己一は版木を制作させる際、20字x20行の400字詰めに統一しており、これが現在の原稿用紙の基本様式になった。
塙保己一記念館
雉岡城(戦国時代に山内上杉家により築城、江戸時代前に廃城)城郭の前方に記念館が見える
塙保己一が失明したのは7歳の時である。胃腸病が原因であった。14歳で江戸へ出て雨富須賀一検校の門人となった。「検校」とは、室町時代に定着した盲官(盲人の役職)の最高位をいう。保己一はそこで鍼やあんまを修行するが身につかず、学問の方に情熱が向かっていった。その才能を見抜いた雨富検校の支援により国学、和歌、儒学、漢学の道へ進んでいったのである。そして48歳のとき「和学講談所」を創立、後の「群書類従」の編纂につながる。
「群書類従」は、古書の散逸を危惧した保己一が、古代から江戸時代初期までの史書や文学作品、1273種類を収集、編集したしたもの。保己一没後四男の忠宝(ただとみ・1808-1862)や弟子によって編纂が続けられたが、忠宝は伊藤博文によって暗殺されているのだ。明治の元勲伊藤博文にそのような過去があるとは知らなかった。忠宝が老中安藤信正の令で、寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査していることが、孝明天皇を廃位するための「廃帝の典故」について調査していると誤解され、尊王の志士伊藤が山尾庸三とともにテロに及んだのだ。山尾は後に明治政府の法制局長官を務めた。
その文献が、日本社会事業大学の木下知威氏(工学博士)のウエブサイト「伊藤博文と山尾庸三が塙忠宝を斬殺したこと」に示されている。木下氏は、「近代日本の盲唖学校を対象に、『建築の使われ方の変遷』を研究している」少壮の学徒である。以下、引用。
<塙の息子・塙忠宝は伊藤博文と山尾庸三によって暗殺されたという渋沢栄一の述懐があるそうです。よく知られるように、伊藤は生前から史料をよく残していました。これを活用した伝記、春畝公追頌會編『伊藤博文傳』を取り上げます。これは伝記のなかでも一次史料を多く使っている詳細なものです。ここから塙忠宝に関するくだりを読んでみましょう。>
第四章 勤王攘夷(下)
曩(さき)に安藤信正を坂下門外に要撃せし激徒の斬奸状に、廃帝の故事を取調べたる一箇条ありしが、その取調の任に当りし者は、国学者塙次郎(忠宝)なることが判明した。ここに於いて、公(伊藤)は、先づ山尾庸三と共に国学入門と称し、塙を麹町三番町の住宅に訪ね、その面貌を見定め置き、文久二年十二月二十一日の夜、塙が他所よりの帰宅を待受け、その住宅附近に於いて国賊と呼びかけ、これを斬殺した。
(『伊藤博文傳』上巻、73頁、昭和15年、旧字をあらため、括弧は補足したもの)
<これを読むと塙保己一の息子を伊藤と山尾が暗殺したのは確かなことがわかります。つまり、日本において盲唖学校の必要性を説き、なおかつ訓盲院とも深く結ばれることになる山尾としては、「盲人の息子を殺したことがある」過去を有している人物になります。わたしはこのことを皮肉なことだと言いたいのではありません。
そうではなく、筑波大学附属の盲学校・聾学校において語られる山尾はあくまでもその一面にすぎないということであり、かつてそのようなこともあったということを知っておくべきだということです。
塙保己一はそんな山尾庸三になんと声をかけるでしょうか>
引用終り
山尾庸三は後に(1880年)楽善訓盲院を創立しており、それは保己一の息子を殺してしまったことの贖罪と考えても自然に思えるが、木下氏よれば、そのように断定する資料等はないとのことである。
*なお、保己一は版木を制作させる際、20字x20行の400字詰めに統一しており、これが現在の原稿用紙の基本様式になった。
塙保己一記念館
雉岡城(戦国時代に山内上杉家により築城、江戸時代前に廃城)城郭の前方に記念館が見える
by rakuseijin653
| 2014-11-29 08:00
| 思想
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