2014年 12月 13日
秋元順子は元同僚 |
秋元順子は、現役時代社員で編成するハワイアンバンドで共に演奏活動をした同僚である。
彼女はヴォーカル、当方はギターを担当した。スチールギターでバンドをリードした男がセミプロ級の技能を持っていたほかは、学生時代に趣味でウクレレを弾いていたとかギターをいじっていたという程度で、皆素人であった。新卒の女子社員は、初めてウクレレに触ったという者が多かった。
それでも練習を重ねて、逗子の「国鉄海の家」やホテルニューオータニでの会社の取引先を招いたレセプションンなどいくつかの大舞台?で演奏したりして“余業”を楽しんだものである。その中で彼女のハリのある声量豊かな歌声は、当初から人びとに耳を傾けさせるものがあった。赤坂プリンスホテルでの結婚式でも歌ってもらい、「南国の夜」などを歌ったテープは今も手元にある。そのうちに業務多忙や転勤などでバンドを離れ、後輩たちの活動を風の便りに聞く程度となりご無沙汰になっていた。
そういうわけで20年ほど当時のメンバーとは疎遠になっていたが、1993年にアメリカ駐在から帰国して、名実ともにバンドリーダーであった男から、S(旧姓)さんがライブハウスで歌っている、と聞いたときは、40歳を過ぎているはずの(実際に46歳であった)彼女は、歌が生きがいで好きな道を歩いているのだろうと勝手に想像しながら、一度聴きに行こうと口約束したままになっていた。
それが2007年に大ブレークして、テレビ画面に出てきたのだから驚きであった。NHKや民放の「徹子の部屋」などのトーク番組も含めて連日のように顔を出し、NHKの紅白歌合戦には2008年、9年2年連続で出演している。
そんな彼女をこのところテレビでは見かけないと思っていたが、まだご活躍のようである。先日は、NHKBSプレミアムの歌番組で熱唱していた。ご同慶の至りだ。日本経済新聞夕刊の連載「人間開発」(11月10日―14日)に登場して67歳の現役歌手人生の来し方を語っている。
紙面で彼女自身が語っている、「花屋のおばさんがメジャー歌手に変身する過程」が興味深い。以下その概要
<24歳で会社を辞めてから花屋を営む男性と結婚、二児を育てながら花屋稼業にうちこんでいたあるとき、昔のバンド仲間から呼び出されたことが縁で、花屋を続けながらも小さなハワイアンの店で歌うようになる。その時、もう40歳になろうとしていた。そしてある大きなパーティで歌っていたら、ジャズ音楽の関係者に、声音がジャズ向きであると声をかけられたことが、彼女の眠れる才能を発掘されるきっかけとなるのである。誘われてジャズの勉強と観光を兼ねて、ニューヨークとニューオリンズを訪ねるツアーに参加、ジャズに目覚めた彼女は帰国後、ヴォイストレーナーについて基礎からジャズを勉強しながら、ライブハウスで歌うようになる。
それから10年後、「マジソン郡の恋」を作詞作曲した無名の星桂三と自費出版したCD2000枚があっという間に売り切れ、さらに6000枚が売り切れたころキングレコードから声がかかった。58歳でのメジャーデビューである。そして花岡優平作曲による「愛のままで」の歌唱がヒットし、「紅白歌合戦」に61歳で初出場を果たすのである>
世の中には、歌が好きでプロ並みの才能を持ったまま埋もれてる素人もいよう。花屋稼業に専念していた彼女の場合、プロ歌手になることを夢み渇望していたわけではない。だが、彼女の歌の才能を捨てきれない仲間に導かれ、それがきっかけでまた専門家に出会い大きな活動の場へ出ていった。
秋元順子の歌手人生は、才能と人とのめぐり合わせに恵まれたサクセスストーリーである。夫の理解と子供たちの応援が支えになったのはもちろんである。
そういうわけで20年ほど当時のメンバーとは疎遠になっていたが、1993年にアメリカ駐在から帰国して、名実ともにバンドリーダーであった男から、S(旧姓)さんがライブハウスで歌っている、と聞いたときは、40歳を過ぎているはずの(実際に46歳であった)彼女は、歌が生きがいで好きな道を歩いているのだろうと勝手に想像しながら、一度聴きに行こうと口約束したままになっていた。
それが2007年に大ブレークして、テレビ画面に出てきたのだから驚きであった。NHKや民放の「徹子の部屋」などのトーク番組も含めて連日のように顔を出し、NHKの紅白歌合戦には2008年、9年2年連続で出演している。
そんな彼女をこのところテレビでは見かけないと思っていたが、まだご活躍のようである。先日は、NHKBSプレミアムの歌番組で熱唱していた。ご同慶の至りだ。日本経済新聞夕刊の連載「人間開発」(11月10日―14日)に登場して67歳の現役歌手人生の来し方を語っている。
紙面で彼女自身が語っている、「花屋のおばさんがメジャー歌手に変身する過程」が興味深い。以下その概要
<24歳で会社を辞めてから花屋を営む男性と結婚、二児を育てながら花屋稼業にうちこんでいたあるとき、昔のバンド仲間から呼び出されたことが縁で、花屋を続けながらも小さなハワイアンの店で歌うようになる。その時、もう40歳になろうとしていた。そしてある大きなパーティで歌っていたら、ジャズ音楽の関係者に、声音がジャズ向きであると声をかけられたことが、彼女の眠れる才能を発掘されるきっかけとなるのである。誘われてジャズの勉強と観光を兼ねて、ニューヨークとニューオリンズを訪ねるツアーに参加、ジャズに目覚めた彼女は帰国後、ヴォイストレーナーについて基礎からジャズを勉強しながら、ライブハウスで歌うようになる。
それから10年後、「マジソン郡の恋」を作詞作曲した無名の星桂三と自費出版したCD2000枚があっという間に売り切れ、さらに6000枚が売り切れたころキングレコードから声がかかった。58歳でのメジャーデビューである。そして花岡優平作曲による「愛のままで」の歌唱がヒットし、「紅白歌合戦」に61歳で初出場を果たすのである>
世の中には、歌が好きでプロ並みの才能を持ったまま埋もれてる素人もいよう。花屋稼業に専念していた彼女の場合、プロ歌手になることを夢み渇望していたわけではない。だが、彼女の歌の才能を捨てきれない仲間に導かれ、それがきっかけでまた専門家に出会い大きな活動の場へ出ていった。
秋元順子の歌手人生は、才能と人とのめぐり合わせに恵まれたサクセスストーリーである。夫の理解と子供たちの応援が支えになったのはもちろんである。
by rakuseijin653
| 2014-12-13 08:00
| 人生
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