2015年 03月 06日
徳富蘇峰と蘆花 |
徳富蘇峰と蘆花は、祖父の母系の又従兄にあたる。祖父の祖母と蘇峰の母親が姉妹という関係である。祖父は婿養子で生家を出たが、子供のころまでは親戚づきあいもあったらしい。蘇峰、蘆花ともに癇癪持ちであったが祖父もそうであった。褒められた性格ではないが、そういうところは同じ遺伝子をもっていたのかなどと思う。それから2代も経ればもう他人と同じだが、批判精神旺盛?なところなどに遺伝子の繋がりを感じないでもない。
蘇峰と蘆花は共に熊本バンドのメンバーとして同志社で学び、平民主義を唱えたところまでは同一軌道を歩んでいた。平民主義は、国権主義や軍備拡張主義を批判するものである。しかし、日清戦争後の三国干渉を機に蘇峰が国家主義へと変節してから、二人の距離は広がり蘆花は蘇峰に対して「絶縁宣言」をする状態にまで至る。蘇峰が国家権力の側に入っていくのに対して、蘆花はあくまでも市民の側に立ち、いわば国家権力とは対峙する姿勢を守ったのである。
蘆花は1910年、大逆事件で死刑判決を受けた幸徳秋水らの助命運動にたった。既に「不如帰」などの作品で作家の地位を確立していたが、内在する思想は平民主義にあったのだろう。蘆花は、時の桂太郎首相の側近であった蘇峰に幸徳らの減刑助命の仲介を要請している。そのころ二人は絶縁関係にあったことを思えば、蘆花の切迫した思いはよほどのことであったと想像される。しかし蘆花の嘆願は取り上げられることはなく、12名の死刑は執行された。蘆花は1911年、第一高等学校で「謀叛論」と題した演説を行い、「自由平等の世」を志した幸徳ら「改革者」に理解を示した。国権主義が勢いを増していく時代にあって蘆花は、誰もが言いたくても言えないことを声を大にして言ったのである。
徳富蘆花『謀叛論』(1910年第一高等学校に於ける演説=「日本の歴史」中央公論社より一部)
「諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に悉く大逆をやる意志があったか無かったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君が云ったと云うが如く今彼のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見る遑(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか如何(どうか)か僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死者狂いになって天皇陛下と無理心中を企てたのか否か、僕は知らぬ。」
「大逆罪の企てに万不同意であると同時に、彼等十二名も殺したくはなかった。生かして置きたかった。彼等は乱臣賊子の名を受けてもたゝの賊ではない。志士である。自由平等の新天地を夢み身を捧げて人類の為に盡さんとする志士である。其行為は仮令(たとい)狂に近いとも、其志は憐れむべきではないか。国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義立てして十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である。諸君、幸徳君等には時の政府の謀叛人と見做されて殺されたが、謀叛を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」(強調は引用者)
大逆罪に問われた24名のうち12名が処刑されたが、弁護士は大逆罪に相当するのは幸徳秋水らを除く4名のみであると訴えた。幸徳ら8名は冤罪による処刑であった。それは歴史的にも証明されている。冤罪にいたらしめた者は誰か、蘆花はここで、「忠義立てして十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である」と上部権力におもねる(官僚派)大臣を批判したのである。
蘇峰と蘆花は共に熊本バンドのメンバーとして同志社で学び、平民主義を唱えたところまでは同一軌道を歩んでいた。平民主義は、国権主義や軍備拡張主義を批判するものである。しかし、日清戦争後の三国干渉を機に蘇峰が国家主義へと変節してから、二人の距離は広がり蘆花は蘇峰に対して「絶縁宣言」をする状態にまで至る。蘇峰が国家権力の側に入っていくのに対して、蘆花はあくまでも市民の側に立ち、いわば国家権力とは対峙する姿勢を守ったのである。
蘆花は1910年、大逆事件で死刑判決を受けた幸徳秋水らの助命運動にたった。既に「不如帰」などの作品で作家の地位を確立していたが、内在する思想は平民主義にあったのだろう。蘆花は、時の桂太郎首相の側近であった蘇峰に幸徳らの減刑助命の仲介を要請している。そのころ二人は絶縁関係にあったことを思えば、蘆花の切迫した思いはよほどのことであったと想像される。しかし蘆花の嘆願は取り上げられることはなく、12名の死刑は執行された。蘆花は1911年、第一高等学校で「謀叛論」と題した演説を行い、「自由平等の世」を志した幸徳ら「改革者」に理解を示した。国権主義が勢いを増していく時代にあって蘆花は、誰もが言いたくても言えないことを声を大にして言ったのである。
徳富蘆花『謀叛論』(1910年第一高等学校に於ける演説=「日本の歴史」中央公論社より一部)
「諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に悉く大逆をやる意志があったか無かったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君が云ったと云うが如く今彼のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見る遑(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか如何(どうか)か僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死者狂いになって天皇陛下と無理心中を企てたのか否か、僕は知らぬ。」
「大逆罪の企てに万不同意であると同時に、彼等十二名も殺したくはなかった。生かして置きたかった。彼等は乱臣賊子の名を受けてもたゝの賊ではない。志士である。自由平等の新天地を夢み身を捧げて人類の為に盡さんとする志士である。其行為は仮令(たとい)狂に近いとも、其志は憐れむべきではないか。国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義立てして十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である。諸君、幸徳君等には時の政府の謀叛人と見做されて殺されたが、謀叛を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」(強調は引用者)
大逆罪に問われた24名のうち12名が処刑されたが、弁護士は大逆罪に相当するのは幸徳秋水らを除く4名のみであると訴えた。幸徳ら8名は冤罪による処刑であった。それは歴史的にも証明されている。冤罪にいたらしめた者は誰か、蘆花はここで、「忠義立てして十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である」と上部権力におもねる(官僚派)大臣を批判したのである。
by rakuseijin653
| 2015-03-06 08:00
| 思想
|
Comments(1)
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rakuseijin653 at 2019-03-07 18:18
徳富敬一郎(蘇峰の孫)「『老妓の如し』とも評された程の好々爺然となってからも尚、かんしゃくを起こしたことがあった。ましてや若いころのかんしゃく持ちは有名であった。蘇峰も蘆花も五人の姉も皆夫々特殊な個性をもった相当な難物揃いであった。」(「蘇峰全集」・筑摩書房)
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