2015年 03月 20日
無意味な首相談話 |
戦後70年首相談話で安倍首相が村山談話を継承するかどうか、国内だけでなく中国、韓国、米国から今までにない“監視の目”が注がれている。異様なことだ。
本来首相談話は、なにも10年ごとに出さなければならないというものではない。出すにしても、他国から村山談話を継承するのかどうかが問われるべきものでもない。
なぜそれが国の内外から問われるのか。われわれが歴史認識論争に決着をつけていないからである。談話を出す以上、その論争に区切りをつけるものでなければ無意味だ。
1995年、自民党、社会党、さきがけ連立内閣時の「戦後50年村山談話」は、国家としての歴史認識にけじめをつけるために出された。しかし、それを否定する者が自民党議員を中心に延々と存在し続けている。安倍首相はそのまた中心にいる。戦後70年首相談話を発表したいという彼の動機は、戦後50年の「村山談話」を見直したいということにある。この場合の「見直し」は「否定」と同義語であり、それは彼の思想信条として一貫したものである。中国や韓国、アメリカの干渉や圧力に左右されて持説と異なる談話を出すならば、彼は信念を曲げて他国の干渉と圧力に屈することになる。
「村山談話」に先立つ「戦後50年国会決議」の採択には、与野党からの多くの反対者が欠席した。新人議員で「終戦50年国会議員連盟」の事務局長であった安倍晋三もこの時欠席している。彼等は決議文の中に「植民地支配」、「侵略的行為」という文言があることを認めることができなかったのである。だから安倍晋三が、首相になって「侵略とみるかどうかは立場によって異なる」、「侵略の定義は定まっていない。侵略かどうかの判断は後世の歴史家に委ねる」と発言したことに驚きはない。彼は「A級戦犯を英霊として尊崇するのは首相として当然」と言って靖国神社に参拝し、「歴史事実委員会」が2012年、アメリカニュージャージー州のスターレッジャー紙に出した「慰安婦の強制連行はなかった」と題する意見広告に、自民党総裁の身で賛同議員として名を連ねてもいる。
過去の内閣では、歴史否定をする閣僚は罷免されるか辞任した(*ここ)。今は、過去に罷免されるか辞任した閣僚の発言以上のことを首相自身が公然と口にしている。そういう首相が、戦後日本の平和な歩みを訴えたところで、世間(国際社会)は、その歩みを壊そうとしているのが安倍首相であると見ている。未来への決意を述べたところで同じである。これだけ騒ぎになれば彼も、村山談話を全く無視した談話は出せないだろうが、それで歴史認識論争に決着がつくことはないし、一時しのぎ以上の意味はない。
安倍首相による談話がどういう内容になるのか内外の耳目が集まる中で、たまたまドイツのワイツゼッカー元大統領の死去(1月31日)が伝わった。1985年、ドイツ連邦議会(下院)でワイツゼッカー大統領が行った「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」というかの有名な演説が呼び戻され、日独の歴史に向き合う姿勢の際立った違いが改めて比較されることになった。この演説でドイツは国内の戦後40年の歴史認識論争に決着をつけ、そのことが近隣諸国との和解のきっかけとなったのである。
先日(3月9日)来日したドイツのメルケル首相も、安倍首相との共同記者会見で「過去を総括することが和解の前提になる」と述べた。 ドイツが40年でできたことが、われわれは70年経ってもできない。情けない話だ。
本来首相談話は、なにも10年ごとに出さなければならないというものではない。出すにしても、他国から村山談話を継承するのかどうかが問われるべきものでもない。
なぜそれが国の内外から問われるのか。われわれが歴史認識論争に決着をつけていないからである。談話を出す以上、その論争に区切りをつけるものでなければ無意味だ。
1995年、自民党、社会党、さきがけ連立内閣時の「戦後50年村山談話」は、国家としての歴史認識にけじめをつけるために出された。しかし、それを否定する者が自民党議員を中心に延々と存在し続けている。安倍首相はそのまた中心にいる。戦後70年首相談話を発表したいという彼の動機は、戦後50年の「村山談話」を見直したいということにある。この場合の「見直し」は「否定」と同義語であり、それは彼の思想信条として一貫したものである。中国や韓国、アメリカの干渉や圧力に左右されて持説と異なる談話を出すならば、彼は信念を曲げて他国の干渉と圧力に屈することになる。
「村山談話」に先立つ「戦後50年国会決議」の採択には、与野党からの多くの反対者が欠席した。新人議員で「終戦50年国会議員連盟」の事務局長であった安倍晋三もこの時欠席している。彼等は決議文の中に「植民地支配」、「侵略的行為」という文言があることを認めることができなかったのである。だから安倍晋三が、首相になって「侵略とみるかどうかは立場によって異なる」、「侵略の定義は定まっていない。侵略かどうかの判断は後世の歴史家に委ねる」と発言したことに驚きはない。彼は「A級戦犯を英霊として尊崇するのは首相として当然」と言って靖国神社に参拝し、「歴史事実委員会」が2012年、アメリカニュージャージー州のスターレッジャー紙に出した「慰安婦の強制連行はなかった」と題する意見広告に、自民党総裁の身で賛同議員として名を連ねてもいる。
過去の内閣では、歴史否定をする閣僚は罷免されるか辞任した(*ここ)。今は、過去に罷免されるか辞任した閣僚の発言以上のことを首相自身が公然と口にしている。そういう首相が、戦後日本の平和な歩みを訴えたところで、世間(国際社会)は、その歩みを壊そうとしているのが安倍首相であると見ている。未来への決意を述べたところで同じである。これだけ騒ぎになれば彼も、村山談話を全く無視した談話は出せないだろうが、それで歴史認識論争に決着がつくことはないし、一時しのぎ以上の意味はない。
安倍首相による談話がどういう内容になるのか内外の耳目が集まる中で、たまたまドイツのワイツゼッカー元大統領の死去(1月31日)が伝わった。1985年、ドイツ連邦議会(下院)でワイツゼッカー大統領が行った「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」というかの有名な演説が呼び戻され、日独の歴史に向き合う姿勢の際立った違いが改めて比較されることになった。この演説でドイツは国内の戦後40年の歴史認識論争に決着をつけ、そのことが近隣諸国との和解のきっかけとなったのである。
先日(3月9日)来日したドイツのメルケル首相も、安倍首相との共同記者会見で「過去を総括することが和解の前提になる」と述べた。 ドイツが40年でできたことが、われわれは70年経ってもできない。情けない話だ。
by rakuseijin653
| 2015-03-20 08:00
| 政治
|
Comments(3)
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rakuseijin653 at 2015-03-20 09:42
偶然にも今朝の日本経済新聞「私の履歴書・古川貞二郎(元内閣官房副長官)」に、村山談話を出すまでの経緯が語られている。
「外政審議室長谷野作太郎さんが心血を注いで作成した談話案には「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」」の言葉が入り、アジア諸国の人々へのおわび、とりわけ未来に向って平和の理念を推し進める内容で、私はこれ以上望めない談話案だと思った。橋本龍太郎さんの意見で「終戦」を「敗戦」に修正したと後で村山さんに聞いた。閣議の司会役である野坂官房長官が『古川副長官が談話案を読み上げますので、謹んで聞いて下さい』とわざわざ発言した。普通は閣議の進行で「謹んで」というようなことは言わない。野坂さんも同じ思いなのだと心が熱くなった。私は丹田に力を込め厳粛に読みあげた。閣議室は水を打ったように静まりかえり、しわぶき一つ聞こえなかった。閣僚は腕組みしながら聞き入っており、異論は全く出なかった」
「外政審議室長谷野作太郎さんが心血を注いで作成した談話案には「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」」の言葉が入り、アジア諸国の人々へのおわび、とりわけ未来に向って平和の理念を推し進める内容で、私はこれ以上望めない談話案だと思った。橋本龍太郎さんの意見で「終戦」を「敗戦」に修正したと後で村山さんに聞いた。閣議の司会役である野坂官房長官が『古川副長官が談話案を読み上げますので、謹んで聞いて下さい』とわざわざ発言した。普通は閣議の進行で「謹んで」というようなことは言わない。野坂さんも同じ思いなのだと心が熱くなった。私は丹田に力を込め厳粛に読みあげた。閣議室は水を打ったように静まりかえり、しわぶき一つ聞こえなかった。閣僚は腕組みしながら聞き入っており、異論は全く出なかった」
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rakuseijin653 at 2015-05-13 10:28
田中均元外務省審議官が戦後70年談話に注文:「日本が敗戦国という現実を踏まえないで、『そんな極端なことを日本はやっていない』という議論は国際社会の支援を得られない。村山談話は歴代内閣が継承し、政府の基本的な方針になっている。きちんとした言葉を使って談話を作るのが国益にかなう」東京都内での講演・朝日新聞5月13日
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rakuseijin653 at 2019-03-07 17:44
片山杜秀慶応大学教授「安倍首相は総合的に納得させ言葉使い方ができていない。戦後70周年談話にしても『この部分はこの人たちが喜ぶだろう』という言葉がパーツとして入っているだけで、前後の脈絡がなく全体を通すと意味不明、総合ではなく分裂している。言葉に対する感性が鈍磨していないとあの原稿は読めないと思う。安倍首相は外交史家や国際政治家などリアリストばかりをブレーンに置いている。リアリストの思考は歴史ではなくゲームなのです。歴史の重みより今の手しか考えていない。その結果、言葉もその場しのぎになる」
AERA2018年12月10日号
AERA2018年12月10日号