2017年 02月 16日
私説・生前退位論(2) |
憲法第一条の「天皇は国民統合の象徴であって」
の「統合の象徴」とはどういうことかと考える。
普通われわれは天皇を、「国民を統合するため」の象徴ととらえているだろう。天皇がいなければ国民はバラバラになってしまう、というわけだ。だからわれわれは天皇を推し戴くのだと。「われわれは、天皇がいなければバラバラになるような情けない国民ではない」と言う天皇制廃止論者も、天皇を「国民を統合するため」の存在と解釈していることになる。
しかし憲法学者の横田耕一(九州大学名誉教授)によると、「(結果として)統合されている国民を象徴しているのが天皇である」と言う。
以下、首相官邸での学識経験者会議の記録から。
「天皇は日本国民の統合の象徴であるということになっているのですが、この国民統合ということの規範的意味でございます。憲法学界の通説といたしましては、規範的には国民統合の象徴というのは、統合されている国民を表しているということであって、天皇が積極的に国民を統合するということを意味しているものではないというように理解されております。しかし、御承知のとおり、現実には象徴天皇が存在することによって、国民を統合する、そういう社会的作用を果たしているのは事実でございます」http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou4.html
ここで横田が認めているように、「天皇が存在することによって国民を統合する」という「社会的作用」を果たしているのが現実である。その“理念”は明治時代に遡る。明治憲法起草にあたって伊藤博文は、その意図を次のように述べた。
「欧州に於ては宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ」
伊藤のこの思想を基に昭和20年(1945)の敗戦まで、天皇主権の下、徹底した「皇民化教育」が行われ国民は洗脳された。戦後の今も、憲法で天皇は「象徴」になったにもかかわらず、いまだに君主制下の天皇の幻想から覚めない人たちがいる。例えば、大臣の認証式での天皇に対する政治家先生たちのしゃちこばった挙動は時代錯誤そのもので、見ていると滑稽でしかたがない。そこでは天皇にお尻を向けてはならないそうだ。臣下の大臣は天皇に恭しく最敬礼し、三歩下がってから横を向き、そのまま引き下がる、あの光景のことだ。
今、保守右派は憲法改定によって天皇を元首とするさらなる明治への回帰を強めているように見える。彼等にとって、被災地で膝をついて罹災者に語らう天皇の姿は我慢がならないらしい。しかし天皇にすれば、そのように崇め奉られることを、“心地よい”とは思っていないのではないか。2009年、結婚50周年に
「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」と言っているのである。平俗な表現をすれば、明治憲法下のように主君のごとく奉られるのは勘弁してくれ、ということだ。これに対して皇統神話を信じてその下にひたすら尊崇の念を表し、国民を統合するための元首に奉りたい保守右派たちは、天皇は「天皇としての本分をわきまえていない」とさえ批判する。天皇の「思い」がそれらと乖離があることは明らかだ。
次に、「天皇の地位は日本国民の総意に基づく」
この「国民の総意」とはどういう意味なのだろうかと考える。
天皇が天皇の位置にあることを国民が総意として「認めること」なのか、それとも天皇に、その地位にいてくださいと国民が総意として「お願いすること」なのか。天皇制とは一種の機関であり、「国民主権」の中では天皇は公務員と同じで、国民が天皇より上位にあるとする横田耕一教授の解釈(「憲法と天皇制」・岩波新書)に従えば、「認める」ということになるが、一般国民はそうは思っていないだろう。
普通、「認める」とは、上位者が下位者に対して使う言葉である。少なくとも相互が対等の関係であるはずだ。今盛んに人々は、天皇の退位を「認める」とか「認めない」とか言っているが、自分たちが天皇より上位にあると認識して言っているのだろうか。そうではあるまい。ならば天皇に対して、尊崇の念を持ってやまない人たちは不遜ではないか。彼らは天皇に対して「退位されても結構です」とか「退位をなさらずにお願いします」言うべきなのではないのか。
国民が総意として天皇に「その地位にいてください」とお願いしても、天皇には「嫌だ」と言う“権利”はないのか。それは「職業選択の自由」を奪う基本的人権にかかわる問題とは考えないのか。ヘリクツを言えば天皇制は、「お願いする」国民と「それを受け入れる」天皇との合意の上で成り立つものではないか。合意が成り立たたなければ、共和制となる。
東京大学の研究室が隣室で、三笠宮と長いつきあいがあったという色川大吉氏は、三笠宮が「天皇制は国民がもういりませんというならそれで結構です」と話していた、と語っている(朝日新聞夕刊1月25日)。それは、天皇家の廃絶を意味しているわけではない。皇室中心主義者は受け入れないだろうが、「天皇制」継承の可否と「天皇家」の存続は別だ。作家の臼井吉見が言ったように、天皇を「天皇制から解放」し、安穏に暮らしてもらえばいいのである。
日ごとに陽の陰が短くなっていく初春、つれづれにそんなことを考えた。
の「統合の象徴」とはどういうことかと考える。
普通われわれは天皇を、「国民を統合するため」の象徴ととらえているだろう。天皇がいなければ国民はバラバラになってしまう、というわけだ。だからわれわれは天皇を推し戴くのだと。「われわれは、天皇がいなければバラバラになるような情けない国民ではない」と言う天皇制廃止論者も、天皇を「国民を統合するため」の存在と解釈していることになる。
しかし憲法学者の横田耕一(九州大学名誉教授)によると、「(結果として)統合されている国民を象徴しているのが天皇である」と言う。
以下、首相官邸での学識経験者会議の記録から。
「天皇は日本国民の統合の象徴であるということになっているのですが、この国民統合ということの規範的意味でございます。憲法学界の通説といたしましては、規範的には国民統合の象徴というのは、統合されている国民を表しているということであって、天皇が積極的に国民を統合するということを意味しているものではないというように理解されております。しかし、御承知のとおり、現実には象徴天皇が存在することによって、国民を統合する、そういう社会的作用を果たしているのは事実でございます」http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou4.html
ここで横田が認めているように、「天皇が存在することによって国民を統合する」という「社会的作用」を果たしているのが現実である。その“理念”は明治時代に遡る。明治憲法起草にあたって伊藤博文は、その意図を次のように述べた。
「欧州に於ては宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ」
伊藤のこの思想を基に昭和20年(1945)の敗戦まで、天皇主権の下、徹底した「皇民化教育」が行われ国民は洗脳された。戦後の今も、憲法で天皇は「象徴」になったにもかかわらず、いまだに君主制下の天皇の幻想から覚めない人たちがいる。例えば、大臣の認証式での天皇に対する政治家先生たちのしゃちこばった挙動は時代錯誤そのもので、見ていると滑稽でしかたがない。そこでは天皇にお尻を向けてはならないそうだ。臣下の大臣は天皇に恭しく最敬礼し、三歩下がってから横を向き、そのまま引き下がる、あの光景のことだ。
今、保守右派は憲法改定によって天皇を元首とするさらなる明治への回帰を強めているように見える。彼等にとって、被災地で膝をついて罹災者に語らう天皇の姿は我慢がならないらしい。しかし天皇にすれば、そのように崇め奉られることを、“心地よい”とは思っていないのではないか。2009年、結婚50周年に
「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」と言っているのである。平俗な表現をすれば、明治憲法下のように主君のごとく奉られるのは勘弁してくれ、ということだ。これに対して皇統神話を信じてその下にひたすら尊崇の念を表し、国民を統合するための元首に奉りたい保守右派たちは、天皇は「天皇としての本分をわきまえていない」とさえ批判する。天皇の「思い」がそれらと乖離があることは明らかだ。
次に、「天皇の地位は日本国民の総意に基づく」
この「国民の総意」とはどういう意味なのだろうかと考える。
天皇が天皇の位置にあることを国民が総意として「認めること」なのか、それとも天皇に、その地位にいてくださいと国民が総意として「お願いすること」なのか。天皇制とは一種の機関であり、「国民主権」の中では天皇は公務員と同じで、国民が天皇より上位にあるとする横田耕一教授の解釈(「憲法と天皇制」・岩波新書)に従えば、「認める」ということになるが、一般国民はそうは思っていないだろう。
普通、「認める」とは、上位者が下位者に対して使う言葉である。少なくとも相互が対等の関係であるはずだ。今盛んに人々は、天皇の退位を「認める」とか「認めない」とか言っているが、自分たちが天皇より上位にあると認識して言っているのだろうか。そうではあるまい。ならば天皇に対して、尊崇の念を持ってやまない人たちは不遜ではないか。彼らは天皇に対して「退位されても結構です」とか「退位をなさらずにお願いします」言うべきなのではないのか。
国民が総意として天皇に「その地位にいてください」とお願いしても、天皇には「嫌だ」と言う“権利”はないのか。それは「職業選択の自由」を奪う基本的人権にかかわる問題とは考えないのか。ヘリクツを言えば天皇制は、「お願いする」国民と「それを受け入れる」天皇との合意の上で成り立つものではないか。合意が成り立たたなければ、共和制となる。
東京大学の研究室が隣室で、三笠宮と長いつきあいがあったという色川大吉氏は、三笠宮が「天皇制は国民がもういりませんというならそれで結構です」と話していた、と語っている(朝日新聞夕刊1月25日)。それは、天皇家の廃絶を意味しているわけではない。皇室中心主義者は受け入れないだろうが、「天皇制」継承の可否と「天皇家」の存続は別だ。作家の臼井吉見が言ったように、天皇を「天皇制から解放」し、安穏に暮らしてもらえばいいのである。
日ごとに陽の陰が短くなっていく初春、つれづれにそんなことを考えた。
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by rakuseijin653
| 2017-02-16 08:00
| 天皇
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