2017年 03月 06日
護憲派の欺瞞 |
先の国会内外における安保法制論議で護憲派は、集団的自衛権を認める安保法制は憲法の勝手な解釈で許されないと政府を攻撃した。しかし、個別的自衛権なら憲法違反にならないとする護憲派も、憲法9条2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」を、自分たちに都合よく解釈(解釈改憲)している。護憲派の欺瞞である。
実際の所は護憲派の中でも社民党、共産党は、自衛隊そのものを違憲としているが、“リベラル護憲派”の間では、個別的自衛権の保持は国家として存在するうえでの「自然権」であるから憲法違反ではない、と解釈するのが一般的になっている。しかし憲法を素直に読めば、「軍隊そのもの」を認めないとしているのであるから、論理としては個別的自衛権として自衛隊を持つのも憲法違反になる。
だから今まで、自衛隊は違憲であるから改憲の必要があるが、一方、集団的自衛権を認めるだけでなく個人の人権保護にかかわる問題など他の分野で復古主義をめざす現政権による改憲案は危険であると考えていた。
改憲派と護憲派を対抗軸とした論争の中にあって、「9条を削除すべし」という“斬新な”主張をしている学者がいる。東大教授の井上達夫である。彼は法哲学者であるから、法学者とは違った立場からの学論とも言えるかもしれない。
(法哲学とは、「ひらたく言えば、既存の諸概念にとらわれることなく考察する学問」・Wikipedia)
井上の主張(「憲法の涙」・毎日新聞出版)を要約すれば次の通りである。
「憲法9条は、『非武装中立』を凍結してしまっている。だから、改憲派も護憲派も解釈改憲で対応し、結果として憲法を死文化させている。(これが本のタイトルを「憲法の涙」とするゆえん)
国家の安全保障の基本戦略は外部環境にも依存する。非武装中立で行くのか、武装中立か、個別的自衛権としての自衛隊を認めるのか、集団的自衛権まで行くのか。それは憲法に書きこむべきではない。通常の民主的な立法過程で、絶えず討議され、決定・試行され、批判的に再検討され続けるべきだ」
という事で、あるべき憲法として9条の削減を求めているのである。彼は言う「9条が歯止めになっているのではなく、9条があるから都合の良い解釈をしていて、歯止めになっていない」と。
そして現状では、「改憲派も護憲派も負けるリスクを恐れ、国民投票に問うことを避けて『解釈改憲』でよしとして いるのは、双方とも欺瞞である」、「例えどちらかが負けても、そういう過程(学習)を経てしか国民の民主主義意識は成長しないし、政治は変わらない」、「公正な政治的競争によって敗者は勝者に従う、それで失敗したら少数者が多数になって入れ替わる、それが立憲民主主義である」と言う。
こうして井上教授は、解釈憲法によって個別的自衛権を容認する憲法学者長谷部恭男(早大教授・元東大教授)などに果敢に論戦を挑んでいるが、井上に言わせれば、彼らは論点を意図的にずらしている、としている。
先の大戦の戦争指導者たちの愚行を失敗としてではなく、正当化し美化する現政権とそれを支持する一定の国民世論をみていると、「失敗から学んで初めて国民は成長する」と言う主張には異論があるが、9条削除論を唱える井上説には「理」があると思う。
なお、井上教授は、現憲法は成立過程はともかく、その後改憲の機会はあったにもかかわらずしなかったので、もはや押しつけ憲法ではない、集団的自衛権はアメリカの戦争に加担することを意味するので反対、個別的自衛権としての自衛隊保持には賛成、という立場である。

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実際の所は護憲派の中でも社民党、共産党は、自衛隊そのものを違憲としているが、“リベラル護憲派”の間では、個別的自衛権の保持は国家として存在するうえでの「自然権」であるから憲法違反ではない、と解釈するのが一般的になっている。しかし憲法を素直に読めば、「軍隊そのもの」を認めないとしているのであるから、論理としては個別的自衛権として自衛隊を持つのも憲法違反になる。
だから今まで、自衛隊は違憲であるから改憲の必要があるが、一方、集団的自衛権を認めるだけでなく個人の人権保護にかかわる問題など他の分野で復古主義をめざす現政権による改憲案は危険であると考えていた。
改憲派と護憲派を対抗軸とした論争の中にあって、「9条を削除すべし」という“斬新な”主張をしている学者がいる。東大教授の井上達夫である。彼は法哲学者であるから、法学者とは違った立場からの学論とも言えるかもしれない。
(法哲学とは、「ひらたく言えば、既存の諸概念にとらわれることなく考察する学問」・Wikipedia)
井上の主張(「憲法の涙」・毎日新聞出版)を要約すれば次の通りである。
「憲法9条は、『非武装中立』を凍結してしまっている。だから、改憲派も護憲派も解釈改憲で対応し、結果として憲法を死文化させている。(これが本のタイトルを「憲法の涙」とするゆえん)
国家の安全保障の基本戦略は外部環境にも依存する。非武装中立で行くのか、武装中立か、個別的自衛権としての自衛隊を認めるのか、集団的自衛権まで行くのか。それは憲法に書きこむべきではない。通常の民主的な立法過程で、絶えず討議され、決定・試行され、批判的に再検討され続けるべきだ」
という事で、あるべき憲法として9条の削減を求めているのである。彼は言う「9条が歯止めになっているのではなく、9条があるから都合の良い解釈をしていて、歯止めになっていない」と。
そして現状では、「改憲派も護憲派も負けるリスクを恐れ、国民投票に問うことを避けて『解釈改憲』でよしとして いるのは、双方とも欺瞞である」、「例えどちらかが負けても、そういう過程(学習)を経てしか国民の民主主義意識は成長しないし、政治は変わらない」、「公正な政治的競争によって敗者は勝者に従う、それで失敗したら少数者が多数になって入れ替わる、それが立憲民主主義である」と言う。
こうして井上教授は、解釈憲法によって個別的自衛権を容認する憲法学者長谷部恭男(早大教授・元東大教授)などに果敢に論戦を挑んでいるが、井上に言わせれば、彼らは論点を意図的にずらしている、としている。
先の大戦の戦争指導者たちの愚行を失敗としてではなく、正当化し美化する現政権とそれを支持する一定の国民世論をみていると、「失敗から学んで初めて国民は成長する」と言う主張には異論があるが、9条削除論を唱える井上説には「理」があると思う。
なお、井上教授は、現憲法は成立過程はともかく、その後改憲の機会はあったにもかかわらずしなかったので、もはや押しつけ憲法ではない、集団的自衛権はアメリカの戦争に加担することを意味するので反対、個別的自衛権としての自衛隊保持には賛成、という立場である。

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by rakuseijin653
| 2017-03-06 08:00
| 思想
|
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