2019年 06月 15日
三浦瑠璃の「天皇制」考 |
国際政治学者三浦瑠璃(1980~)が、天皇制について考えを語っている。(月刊文藝春秋6月号)
「平成の天皇はさまざまな活動をしながらも、象徴としての一線を超えないよう配慮してきた。ところが国民やメディアの方が、時にその一線を超えることを要求している。」
学者ではあるが、皇室問題の専門家でもなく憲法の専門家でもないいわば一般人としての、しかも若い世代の三浦の考えを知るという意味で、読んでみた。ひごろ斜めに構えて刺激的な発言も見られる彼女だが、「皇室の伝統は成り行きに任せるしかない」と考えていることには意外な感じがした。
以下同誌より、その一部(原文は「です・ます」)。
「敬愛の念があまり強すぎても皇室という制度は硬直化してしまう。とくに平成の御代の終わりに至って一種異様なほどの精神性が生まれている。たとえばどんな権威も物ともしない辛辣なコラムニストでも、皇室のことになると文章の調子が変わってしまう。」
「皇室に人間性をはるかに超えた完全な人格や家族像を投影するのは間違っている。それにもし酷い人格の持ち主が皇位継承者となるようなことがあれば、いかに幻想を保つべく保守派が頑張ったとしても、日本の皇室をめぐる伝統は廃れてしまうだろう。結局皇室の伝統は成り行きに任せるしかない。」
「だから『とにかく粗相があってはいけない』と皇室をあまり神聖視しすぎるのは良くない。私が子供の頃は、メデイアが皇室を語るときの口調にもう少し遠慮がなかったと記憶しているが、近年になるほどある種異様な『自己規制』は強力に働くようになっている。
たとえばアナウンサーも、皇室関連になるとニュースを読みあげる声色まで変わってしまう。絶対に噛んではいけないという緊張感が肩のあたりまでみなぎっているのを感じる。コメントも忖度の雰囲気を感じるものが多い。」
「私はこういうところに画一化が進む今の日本の怖さを感じる。『横並びの規制』の強迫観念の怖さである。これが私たちの生きずらさや閉塞感を生み出しているように思う。」
「令和という新しい御代に、日本は天皇の人権という概念を受け入れるべきだと思う。皇室に私たちがベッタリ依存ばかりしていては、天皇や皇室の存在を政治化してしまうだけである。すると『私たちの自立』も失われてしまう。」
「近代化が進むにつれて、天皇や皇室が必要とされる領域は本来狭まっていくはずだった。『政治』によってカバーされる領域が広がることが理想的であり健全である。それができないから天皇や皇室が必要とされる領域が大きくなってしまう。」
「私が疑問に思うのは、そうした声がリベラルからはほとんど上がってこないことだ。それどころか、天皇や皇室に『リベラル』の象徴を読み込もうとしている。」
(強調は引用者)
「皇室をあまり神聖視するのは良くない」と言うなら、「御代」という言葉遣いをするのは矛盾していると思うが、彼女の考えは常識的なものであろう。しかし現在、このような常識的な考えが広く一般人のなかにあるとは思えない。天皇の代替わりと改元を報するテレビの番組は、お祝い騒ぎで終始した。
日本人の平均的な国民性(体制/大勢順応)から言って、今後も天皇制のありかたについての議論が広がることはなかろう。
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by rakuseijin653
| 2019-06-15 08:00
| 天皇(制)
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