2022年 07月 01日
最後の特攻隊 |
今年は、1972年4月27日の沖縄復帰から50周年。それを祝福するような報道の裏に、77年前の同じ時期、本土防衛の盾となって戦を強いられていた沖縄に思いをはせた日本人はどれだけいただろう。
米軍が沖縄への総力攻撃を始めた1945年4月、最後の特攻隊として地獄の戦場へ向かっていた若い兵士たちがいた。その中に、出撃わずか1か月前の2月28日に、にわか仕立てのパイロットとして編成された陸軍特攻『誠』隊があった。特攻隊員を訓練した教官野村潔陸軍中尉(27歳)、『誠隊』の隊長として11人の部下を率いて出撃した小林少尉(23歳)が心情切々たる手記を遺している。以下、NHKテレビ『特攻・知られざる真実』(2021年8月15日放送)から。
教官野村中尉の手記
「隊員たちが初めて特攻を告げられた時の日のこと、私は、彼らの顔を見て居た。さすがに青冷めて緊張して居た。この死の宣告に、小刻みに震える彼らが可哀そうであった。その日の夕食、彼らの多くが箸に手をつけられなかった。まるでお通夜の様に皆物思いに耽っていた。食事をとる気もないのだろう。その時点の彼らは死と対峙し、只孤独で有った。特攻要員は嫌とすれば逃亡以外に術はない。もちろん軍刑に依って裁かれ不名誉な事だ」
「(訓練は敵艦に体当たりするため)急降下水平飛行、超低空水平攻撃という高度な技術を要するもので、到底ムチャクチャナ操作に搭乗者は耐えられるものではない。1カ月の短期で習得は無理。命のあるかぎり反復攻撃をさせたほうが戦果が期待でき、志気も上がるのに、これでは単なる気休めで有り国民に対して死力を尽くしてゐると言う宣伝の自己満足に過ぎない」
『誠隊』隊長小林少尉の手記。
「行かば断じて還らざる12の命なれば、下士官の中、未だに心定かならざる者あり。これを喜びて死地に赴かしむるのも余の責任にある」
「すべては捨つる時なり。音楽も愛情も友情も、今は要なし」
小林少尉が出撃の前に故郷水戸に帰って母に会った後の歌、
死出の道と知りても
母は笑顔にて送りてくれぬ
吾 故郷を去る日
3月20日出陣式、4月6日出撃
野村中尉の手記
「小林少尉に私は、『許せ』となんども心に詫びた。
『体に気をつけて元気で有ってほしい』と言って絶句した。彼等の生命は既に抜き差しできない数日に迫っているのだ。死を前提とした残酷な作戦、その意味はあるのかと自問した」
「小林少尉は、『教官殿も元気で。あとの日本をよろしくお願いします』とはっきり述べた」(強調は引用者)
小林は兵役前は商社員であり、他には映画会社員、民間パイロットを目指していた者などがいた。かくして野村中尉のもとで訓練を受けた彼らの運命は36人中29人戦死、訓練中事故死3、不時着4であった。
*沖縄戦全体の特攻による戦死者は2,600
文字通り”捨て鉢”の特攻で若い命を無駄にしたにもかかわらず、軍の幹部には〝例によって”反省の言葉はない。陸軍参謀本部田中耕二中佐(戦後、航空自衛隊)は戦後25年、新聞のインタビューに答えている。
「特攻は現場の発案で始まった。現実に特攻でなく攻撃しても、もうやられる。数の差と技量の差と性能の差と量の差というものがあって、結果的に撃ち落されるというか、生還できないようならば初めから要するに特攻隊で行くほうが張り合いがあるという、語弊があるがそういう空気は現場にあった」
「功罪を言っては悪いが、特攻の方が効率が多いのではなかっただろうかという感じを私はもっている。特攻は要するに大きな戦果を挙げているというふうに了解している」(原音は「です・ます」*強調は引用者)
特攻という自爆作戦が対米戦全体に全く無意味であったにもかかわらず、戦後25年を経てなお「大きな戦果を挙げた」と特攻作戦を正当化する言葉に唖然とする。あの戦争がいかに間違ったものであったか、そのために兵士が無駄死にして行ったか、一片の反省があってもよかろう。しかし彼らは間違った事を認めない。これが現在にも共通する官僚の本性である。
出撃前に敗戦を迎え死を免れた特攻隊員には、生き残ったことを「戦死した戦友に申し訳ない」と負い目を背負って戦後をひそやかに生き続けた人も少なくない。これに対して、結果的ではなく初めから死を前提にした作戦を強いたことを省みない軍幹部。あまりにも人間性が違いすぎないか。
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by rakuseijin653
| 2022-07-01 17:04
| 戦争
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