川端康成の「新文章読本」(2) |
ここで川端は、「極く最近の、日本小説の、文章上の功労者」として、泉鏡花、徳田秋声、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、菊池寛、宇野浩二、横光利一の名をあげる。
以下、本文では個々に作品を引用しての評論であるが、長くなるので省略する。
徳田秋声(1872~1943)
「近代の作家のうちで、天衣無縫とも称すべきは、徳田秋声の文章であろう。『爛』の書き出しの淡々たる筆致は、文章を超えて、秋声氏の個性を感じる。これを技巧というならば、正に神業にも似る。直ちに己の小説世界に読者を引き入れる手法は、凡百の文章論を超して、読者に何かを教えるのではあるまいか」=引用「町の踊り場」
泉鏡花(1873~1939)
「泉鏡花氏ほど、豊富で変幻極まりない語彙を持っている作家は恐らく空前であり、且つまた絶後であろう。氏のように偏した趣味性を持ちながら、しかも雅語、漢語、俗語などの広い範囲から言葉を集めて来て、それが悉く氏の趣味を色どる花となっているのは特筆すべきことではあるまいか。日本語の最も高い可能性をわれわれに示してくれている点に於いて、礼賛と感謝を捧げなければなるまい」=引用「歌行燈」
志賀直哉(1883~1971)
「人間の心理描写を主観客観の統一した世界に写し出すことにおいて志賀氏の右に出る作家はないであろう。十分に推敲されながら、その苦心が苦心として感じられぬところに余韻の不覚を保つ。首尾一貫した味を、地道な艶を消した文章で表現することで、新しい文章道を切り開いたとも言えようか。一見如何にも無造作で、その平明さは、中学生の作文にもこの程度のものはあるとみえそうだが、作者の眼は、はかりしれぬ奥底をついて、そこに輝いているようである」=引用「城崎にて」
横光利一(1898~1947)
「『国語と格闘した』と自らいったことのある横光利一氏ほど、文章の変貌を重ねた作家は稀で、又それが新規を目ざす気紛れではなくて、実に文章の近代的表現への苦闘でもあったからである。横光氏の文章は、常にその時代の作家の文章に深い影響を与えていた。横光氏の文章の歴史などをふりかえると、いまさらに、作者にとって文章は命である、との感は深い。文章はペンで書くものではなく、命の筆先に血をつけて描く・・・・といった子供っぽい形容さえしたい気持ちなのである」=引用「芋と指環」「皮膚」「機械」「紋章」「旅愁」「微笑」
宇野浩二(1891~1961)
「『文語』の型を大胆に破って、一種の新しい『文語』を発見したという点だけでも永久に残るものであろう。氏の特色は、その巧妙な話術にあって、時には筆の走りすぎるきらいがあり、初期のものは饒舌だとの非難も受ける。しかし用語の平明も、氏の風格となっているようである」=引用「夢の通い路」
武者小路実篤(1885~1976)
「人間の理想と人道主義的な匂いがみえる氏の文章は、いかにも素朴である。何の技巧もない。殆ど稚拙粗雑とも思われるままに、とつとつとして語り、語彙もまた乏しい。用語は、時に何の考慮もはらわれなかったと思われるほど不統一で、作者の情勢の赴くままに流れ出ているが、それがかえって一つの素朴なトーンと、純朴な五感をにじみ出させているようである。名文というには異論も多いであろうが、一つの見事な花を咲かせているともいえるであろう」=引用「ある男」
菊池寛(1888~1948)
「力強く簡潔な文章を生み出した。文芸作品の文章に、普遍、通俗の重大要素を打ち込んだ功績は不滅ともいえよう。氏の文章には、華麗さはない。豊富な語彙もなければ、けんらんたる文脈もない。だがしかし、一字一句動かしがたい一種の威を備えるのである。あくまで正確に、じかに対象と切りむすび、それを備え、あますところなく描いているのである」=引用「入れ札」
里見弴(1888~1983)
「古い文章の文脈の上に、近代のリズムを加えて、生命を吹き込んだ。里見氏の才能は、氏一人に許された天恵であって、余人が行えば、時として地底にも転落しそうな危険を、氏の天分が鮮やかに乗り越え、とびすぎて行くのである」=引用「椿」「無免許炙」
谷崎潤一郎(1886~1965)
「初期のあの絢爛で華麗な文章も、単に文章として見る時は、少し通俗的に感じられる。しかし谷崎氏の文章にはこの欠点を救う多くのものがある。空想の大胆な発展、滔々と流れる大河のような力などがある。大文章家と呼んでよいような人がきわめて少ない現代作家中にあっては、とにかく姿の大きい文章家といわねばならないであろう」=引用「蓼食う虫」
芥川龍之介(1892~1927)
「漢語のあるものは、すでに言葉の生命が硬化して平明、新鮮、繊細、柔軟、具象、情感等を生命とする文芸創作の用語としては歓迎すべきものではないが、それに新しい秩序を与えたのは功績であった。言葉の選び方が精厳で、その清潔さでは泉鏡花氏と比肩されるであろう」=引用「枯野抄」
ほかにも、佐藤春夫、永井荷風、太宰治、久保田万太郎、船橋聖一、織田作之助、丹羽文雄、高見順、石川淳、小島政二郎などの評論もある。世代の違い(30年ほど年長)からか、夏目漱石の名がみえないのは残念であるが(芥川龍之介の言葉として、「夏目先生は、実に『書くようにしゃべる』作家だった」という引用はある)、川端康成という大作家が自分の“威厳”の中に留まることなく、よくもこれだけ他の作家の作品を読み込んでいることに感心させられる。それはさながら、一般読者への「読書ガイダンス」のようでもあり、もっと昔にこの「新文章読本」を読んでおけばよかった、という悔悟をもたらす本でもある。
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