戦争を煽った武者小路実篤 |
武者小路は戦後、戦争協力を理由に公職追放されたが、追放解除の年、昭和26年に文化勲章をもらっている。これがわれわれが住む社会の構図である。
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2018年 03月 25日
武者小路実篤はトルストイの影響を受けた理想主義、人道主義を思想とする白樺派の作家である。今の時代に彼の作品がどれだけ読まれているか知らないが、戦後しばらく多くの読者をとらえていた時代があった。作品もさることながら、彼の、絵に添えた「仲よき事は美しき哉」という言葉(賛)が戦後のすさんだ世間の風潮に一服の清涼剤的な語感を与えたのである。その武者小路が実は、戦時中に戦争を煽っていた。とんでもない人道主義者がいたものだ。
武者小路の戦意高揚文を、北御門二郎が自著「ある徴兵拒否者の歩み」(みすず書房)のなかで引用している。以下、その転載。 「大東亜戦争が始まって以来、我等は日本の見なほし、日本の現代を賛美したい気がしきりとしてくる。実にいい時代に生まれあわせたと思ふ。聖代と言ふべきである。 少し前に死んだ人が気の毒になる程で、僕はこれで安心して死ねるやうな気さへする。 しかし今後も大変と思ふが、しかし日本が負けないことを信じることが出来、本当に亜細亜時代が又来るやうに思ふ。 しかし僕は欧米を侵略したいとは思はない。しかし米英がいつまでも日本を敵に廻して、しつこく日本をやつけやうとしたら、ワシントン、ロンドンまでも進撃することが必要になるかもしれない。軍人の人達がさういう決心でゐることはたのもしい。欧州の方は連邦独伊に任せればいいのだと思ふ。 僕は日本がいつの間にかこんなに強くなってゐたのに驚く。相手が弱いのではなく、日本が強いのである。 毎日新聞を見る度に日本は偉大なる戦果を、陸海軍が競争してゐるかのやうに挙げてゐる。よくもこんなに勝てたものと思ふ。その結果、どんなことになるか、想像のしやうがない程、大きな影響を全世界に与えてゐる。日本はえらい国だと思ふ。 実際こんな時代がこんなに早く来るとは誰も思はなかったらう。実際大東亜戦争は動きがとれない所に逐ひ込まれて、遂に立ち上がらなければならない所まで追いつめられて、立ち上がると同時に敵は腰を抜かした。こんな痛快な戦争は嘗って地上にあったかと言ひたい。 勿論これは奇跡が行われたのではない。当然の結果のあらわれにすぎない。かういふ結果になる為には、三十年以上の苦心が払われてゐたにちがひない。九人(*真珠湾攻撃で戦死=引用者)の軍神で代表されたやうな苦心、決心があらゆる方面で行われたにちがひない。しかし米国の方で油断してゐなかったら、こんな結果にならなかったらう。米国が油断するやうに仕向けたのも、日本の策略にちひないが、天候にも恵まれてゐた。天佑があったといふことは否定できない。実に戦のいい門出で、この時に亜細亜の夜明けは来たと言ふべきである。 その後の戦果の華々しさ、順調に進んでゐるといふ以上に、躍進をつづけてゐる。海に陸に勝利の進軍譜が奏でられてゐる。こんな気持ちのいい、うつくしい戦争が、嘗って地上に行われたか。、、、、、」(「大東亜戦争私感」昭和17年刊・河出書房) この文章に北御門二郎は言う。 「何というおどろくべきトルストイへの背信ぶりであろう。これほどひどくトルストイを裏切ったものはいないのではないか!ユダがイエスを裏切ったように、武者小路氏はトルストイを裏切った。ユダはあとで後悔して縊死したけれど、武者小路氏は戦後も、のほほんといい子になりすまし、仲善きことはうつくしきかな、などと言っているので余計、始末が悪いと思う」 武者小路はこうも言っている。「なんだか南の九州あたりに、トルストイにかぶれて兵役を拒否するとかいって騒いでいる男がいるそうだが、何という馬鹿な奴だろう」 名指しはしていないものの、北御門のことを言っているのは明らかだ。戦後ある老人がテレビに出ている北御門を見て、「あなただったのですか」という文面の手紙をくれたのだという。このことについて北御門は、東大在学中に武者小路が来て、軍部に迎合した講演をしていたので別に驚きはなかった、と言っている。 武者小路は戦後、戦争協力を理由に公職追放されたが、追放解除の年、昭和26年に文化勲章をもらっている。これがわれわれが住む社会の構図である。 リンク:「北御門二郎」 ~ ~ ~ ~ ~ ~
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by rakuseijin653
| 2018-03-25 08:00
| 戦争
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2018年 03月 18日
73年前の3月18日、昭和天皇は3月10日の大空襲で文字通りの焦土となった東京の深川を視察した。画像でしばしば見る見慣れた光景だが、そこに土下座していた国民がいたことは知られていない。偶然その場面に遭遇した作家の堀田善衛(1918~1998)は、「焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者が、焼け跡の原因をつくった方に土下座している姿」を見て驚愕した、と記録に残している。 3月18日の朝堀田善衛は、生存は絶望と覚悟しながらも安否を尋ね、知人が住んでいた深川富岡町に向かった。 「方丈記私記」(筑摩書房・1971年刊)より引く。 「私はただぼんやりと、富岡八幡宮の境内であったところに佇立していた。境内と言っても、どこに本殿があり拝殿があったのかさえ、見当がつかなかった。(略) 九時過ぎと思われる頃に、おどろいたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永代橋方向からあらわれ、なかに小豆色の自動車がまじっていた。それは焼け跡とは、まったく、何とも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じがたいものであった。これ以上に不調和な景色(けいしょく)はないと言い切ってよいほどに、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。焼け跡には、他人が通りかかると、時に狼のように光った眼でぎらりと睨みつける、生き残りの罹災者のほかには似合うものはないのである。 乗用車の列が、サイドカーなども伴い、焼け跡に特有の砂埃をまきあげてやってくる。小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨き立てられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。私は瞬間に、凍るような思いがした」 「私が歩きながら、あるいは電車を乗りついで、うなだれて考えつづけていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなくて、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可なりな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙(えんぴ=小型シャベル)を前に置いて、しめった灰のなかに土下座をした、その人たちの口から出たことばについて、であった。早春の風が、何一つ遮るものもない焼け跡を吹き抜けて行き、おそろしく寒くて私は身が凍える思いをした。心のなかもおそろしく寒かったのである。風は鉄の臭いととも、なんともつかぬ陰気な臭いをはこんでいた。 私は方々に穴のあいたコンクリート塀の陰にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座して、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。 私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こり得るのか! というのが私の考えていたことの中軸であった。ただ一夜の空襲で十万人を超える死傷者を出しながら、それでいてなお生きる方のことを考えないで、死ぬことばかり考え、死の方へのみ傾いて行こうとするのは、これはいったいどういうことなのか?なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか? とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでのいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというのもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた」 「そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏(きょき=すすり泣き)しながら、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そういう考えもまた、私自身において実在していたのである。 そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出てきたものものであるか。政治は現実に、のうのうとこの人民の優情に乗っかっていたではないか。政治がもしそれに乗ることが出来ない、許さるべくもないものだとしたら、のこのこと視察に出てくるなどということは、不可能なことでなければならないだろう。 支配者の側のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。しかし、実は極めて明瞭であって、理解も理解不可能もへったくれもないのである。天皇陛下とその臣民であって、掌をさすが如くに明快であり、その明快さの上に居直ってだけいるとするなら、そこに何らの疑問の余地はありはしない」 「人民の側において、かくまでの災殃(さいおう)をうけ、しかもそれはあくまで人災であり、明瞭に支配者の決定にもとづいて、たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがある筈であった。けれども人民側において、かくまで災殃をうけ、なおかつかくまで優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民となったとしても、このことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、と何ほどかはヤケクソに考えざるをえなかったのであった」(強調は引用者) 昭和天皇はこの日、見渡す限り焦土となった惨状を目の当たりにしても、戦争終結に動くことはなかった。それどころか、4月沖縄の地上戦、5月再度の東京空襲、以後全国各都市への空襲、8月の原爆投下にいたる幾十万の犠牲者が出るまで無謀な戦争をつづけたのである。それでも国民は、そういう結果を招いた原因は自分たちにある、と天皇に詫びた。敗戦の日、8月15日の皇居前広場で土下座した国民の精神性も同じだが、国が焦土となり戦争に敗れた責任は開戦を命じた者にあるのではなく、その命令に従った者にあるというのである。 このような権力者に対する国民の精神性を堀田は、「優情」という(辞書にない)言葉で表現している。堀田に倣ってこの言葉を援用して言えば、無差別爆撃や原爆投下をしたアメリカを非難し謝罪を求めても、その原因をつくった自国の為政者の戦争責任は問わないのは、この「優情」のゆえということになろう。 そして今、安倍政権の姿も、「国民の『優情』(支持率)の上に政治が居直っている」ように見える。 昭和天皇の被爆地視察 ![]() ![]() ~ ~ ~ ~ ~ ~
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by rakuseijin653
| 2018-03-18 08:00
| 天皇
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Comments(0)
2018年 03月 07日
![]() 隣国の平昌オリンピック開催を祝うべき開会式に首相が出席するかどうか、招待を受けた官邸は直前まで意思決定をしなかった。韓国政府が日韓合意に異を唱えたことに日本政府は猛烈に反発していたからである。自民党内の強硬派は、首相のオリンピック開会式出席をボイコットするべきだと主張、韓国の対応に「日韓合意は1ミリたりとも動かさない」と不満を表明していた首相自身も、ギリギリまで出席の意思表示をしなかった。いわばオリンピックを外交上の駆け引きに利用したのである。 そういう状況のなかで二階幹事長が、オリンピックと政治は分けて考えるべきで首相は開会式に出席するべきだ、と述べたことが開会式出席への決定となったと思われる。そういう経緯での式典参加であり、それにあわせての首脳会談であった。
男性同士の握手は、指を相互に深く、強く握手するのがマナーである。むかしニューヨーク駐在時、アメリカ人男性教師に、日本人男性の握手は軽い、もっと力を込めるようにと言われたことがある。握手に気持ちがこもっていないととられ、失礼になるというのである。われわれが“普通に”握手していてもそう指摘されるのだ。 この指摘を別にしても、上の画像に見る安倍首相の握手の仕方は“普通以下”である。いくら相手に不満があろうと、こんな握手の仕方はない。ましてや一国の首相、北朝鮮の核問題で協力し合い、未来志向の友好関係を目指すという国のリーダーがとるべき態度ではない。彼自身は、「毅然たる態度を示した」つもりなのだろうが、虚勢を張った幼児性の表れでしかない。画像はSNSで世界中に発信される。日本の恥である。 文大統領は3月1日の「3・1記念式典」で、「慰安婦問題で加害者が『終わった』と言ってはいけない」と演説した。安倍首相が文大統領に、日韓合意を守るように強く要請した2月9日の会談から3週間足らずにあって、あえてその要請を無視するかのような発言をしたのは、安倍首相が「加害者としての誠意」の対局である無礼で、横柄で、傲慢な態度をとり続けることへの反発の現れではないか。文大統領は、安倍首相が同じ会談で、オリンピック閉会後の米韓軍事演習を延期すべきではない、と言ったことに内政干渉だと不快感を表してもいたのだ。 ▲
by rakuseijin653
| 2018-03-07 09:59
| 政治
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